「道徳の教科化」に潜む"愛国教育"の危うさ 国が道徳観を定め教師が評価するのは適切か
こうして誰かが子どもたちの道徳に「規範」を押し付けていくことはなにを意味するのだろうか? それは、子どもが「国が育てたい国民」に方向付けられる危険性があるということだ。
そもそも教科にはそれぞれその背景に、学問体系が存在する。つまり国語、算数、理科、社会、英語などといった教科教育の科目にはそれぞれこれまで学術的に明らかにしてきたさまざまな事実や事象が存在する。それに照らすことで、教科書の検定や教科の設計が行われ、それに基づくことで評価を可能にしてきたのだ。時には学術的に正しいとされてきた内容が誤っていたことが発覚することもある。たとえば、歴史の教科書や評価の基準などは新しい事実が解明されれば、それに基づいて刷新される。参照先があるからこそ、誤りを正すことができるのだ。
しかし、道徳という教科においては、そうした学問体系をバックグラウンドにして評価を行うことは不可能である。ではなにが評価基準となるのか。これまでの道徳教科に関する政府の議論の変遷をたどると、国の意志の反映を狙う意図が見て取れる。
教科としての道徳が始まったのは、戦前の尋常小学校における「修身科」から。修身科とは、1890年に明治天皇から発表された教育の基本方針「教育勅語」を基にして指導すべき教科とされ、教科教育のなかでも当時特に重要視されていた教科である。それが戦後、教育勅語とともに学校教育から一掃され、道徳教育は学校教育全体のなかで行われるようになった。
終戦から13年後の1958年、「学校教育法施行規則」によって特設道徳という教科がつくられた。修身の復活が道徳と名を変えて始まったのである。このときは評価のない教科として導入されたが、1週間に1時間は必ず道徳を実施するということが決まった。そして2015年改正の「学校教育法施行規則」により道徳を特別の教科に格上げした教育課程が敷かれ、今年度より、実に60年の時を経て、道徳教育が再び教科化されたのである。これまで教育勅語の復活や、道徳教育の拡充に向けた動きはつねに見られてきた。それが安倍政権下についに実現したのである。
「道徳の教科化」の本当の目的とは?
文科省は道徳の教科化の目的として、第一に「いじめ問題の対応」を挙げている。しかしその裏には、政府の別の思惑が見てとれる。「学習指導要領解説 特別の教科道徳編」の第1章の1改定の経緯には、学校教育における道徳教育の使命として下記のことが掲げられている。
以上をお読みいただき、それのなにが問題なのか?と思う方も少なくないだろう。道徳で指導される中身を見てみても、小学校で習ったこと、あるいは家庭で親御さんがお子さんに伝えていることと重なる、そう思われる方も少なくないだろう。
しかし問題なのはこれを「国」が「制度」として導入しているというところなのである。「人格の完成」や「道徳性」とは何かを、はたして国が上から定めるべきものなのだろうか。それを行き過ぎた行為と思うかそう思わないかはおそらくそれぞれの方々の価値観による部分が大きいだろう。しかしぜひ一度、立ち止まって考えてみてほしいのだ。
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