あなたが知らない「辺境の怪書・歴史の驚書」 「普通の本」だけを読んでいてもつまらない
一冊目の『ゾミア』から衝撃は走る。ゾミアとは、インド、ベトナムから中国南部にまたがる山岳地帯を指す。従来の人類学では、ゾミアの山岳地帯に住む人々は、文明に乗り遅れた未開の人たちと捉えられてきた。しかし本書では、その見方を完全にひっくり返し、定住型国家から逃げていった人たちがそこに「戦略的な原始性」をつくり出したものと主張する。さらに国家をかわすため意図的に文字を捨て、リーダーを作らなかったとまでいうから、実にスリリングな内容だだ。
次に紹介されるのが『世界史の中の戦国日本』。本書では、16世紀〜17世紀における日本の辺境として、蝦夷地、琉球、対馬に着目する。これらの地域は、国家という枠組から見ると辺境に位置づけられるが、それはあくまでも現代的な視点に過ぎない。むしろ当事の感覚に合わせて東アジアの中心と捉え、豊臣秀吉と女真族のヌルハチと並べてみたりする。その地図の書き換えが、新たな景色を生み出す。
スタンダードの求心力と辺境の遠心力
この他にもHONZで話題になった『ピダハン』や、HONZでは対象外となる時代小説『ギケイキ 』などにも惹かれるが、最も興味深いのは本書がなかったら絶対に手を出さなかったであろう以下の2冊だ。
『列島創世記』は、無文字社会であった時代における日本の土器の造形美やデザインをテーマにした一冊だ。縄文時代から弥生時代にかけての、デザインの「凝り」に着目しているのが特徴である。普通の感覚なら、ホモ・サピエンスは最初に実用的な土器を作るようになり、暮らしが豊かになるにつれデザイン性の高い土器を作るようになったものと考えがちだろう。
しかし実際は、逆なのだ。縄文時代ではゴテゴテに凝った土器を作っていたのに、弥生時代になるにつれ、土器はシンプルになっていく。この要因を、文化ではなく認知レベルの違いと主張するのだ。本書は「ホモ・サピエンスの心」に着目する認知考古学という分野への良き入門書になってくれることだろう。
そして最後に紹介されるのが『日本語スタンダードの歴史』。これは、明治維新以降いわゆる「江戸山の手言葉」が現代標準語になったという通説を覆す。スタンダードな標準語はそれ以前から各地に広まっており、明治前期の東京の人口回復期に、スタンダードを話せる官員や会社員や教員や書生が上京して山の手に住みついたのだという。つまり東京語が「標準語」になったのではなく、「標準語」が東京語を作ったのである。
全編を通して緩やかにつながっているのが、スタンダードの求心力と、辺境の遠心力が引き合いながら平衡を保っている様だ。思えば現代社会においても、画一的な社会から多様性の溢れる方向へ不可逆に変化を遂げているものと思いがちだ。
しかし実際は、世界における多様性とは時代や場所を問わず一定だったのではないかという印象を受ける。それが多様性への一方通行に感じてしまうのは、辺境について知らないだけであったり、もしくは辺境の側が知られることを望まなかったりしたからではないだろうか。
一方で、多様性や分散型というものが持ち上げられがちな昨今の風潮も、一面的な物の見方に過ぎないことが理解できる。辺境の多様性というものを知れば知るほど見えてくるのは、スタンダードというものの持つ影響力の大きさだ。
「ここではないどこか」を求める著者二人が、時間・空間を彷徨いながら、最終的に「今・ここ」のスタンダードへと帰着した点は非常に興味深い。読書会におけるお互いの存在が、現実から逃避することを許さなかったのではないかと推察する。
何度も何度も、我々の常識や思い込みを鮮やかに裏切ってくれる言説の数々、そこに圧倒的なリアリティを付加してくる二人のガイド。本を読むことだけでなく、語り合うことの面白さも存分に堪能できる一冊と言えるだろう。
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