「ドラクエXI」徹底的にやりこみわかった真実 「過ぎ去りし時を求めて」に見た微妙な違和感

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現在では昔のゲームからすれば無限と思えるほどの容量があり、またグラフィックも現実と見まがうようなものも表現できるようになった。ゲームが成長すると、プレイヤーはとてもワガママになった。製作者の都合だけではない、自分だけの冒険をしたいと願うようになった。そしてそれを叶えることができるゲームが支持され売れるようになったのである。

自由を与えずとも、いかにその気にさせるか

僕はオープンワールドの台頭や、ユーザー側がゲーム内のデータを書き換えてゲームをアップグレードする海外のMOD文化の成熟はそういうものだと考えている。

オープンワールドなどのRPGでは、プレイヤーの体験をプレイヤー自身のプレイに委ねることができる。プレイヤーがゲームの世界という箱庭の中で、どこでどんなサブクエストをプレイしようとゲームが破綻しないようにできているのが、オープンワールドの特徴である。

プレイヤーが自己責任でゲームの内容を書き換えるMODの文化は、ともすればゲームそのものを破綻させかねない代物であり、実際に世界観をめちゃくちゃにするようなMODも存在するが、プレイヤーたちに広く支持されているのは、世界観をより深めるゲームに見合うMODである。

そうしたゲームではプレイヤーたちはゲームを素の状態(バニラ)から、自分好みに作り変えて満足を得ている。もちろん素の状態で満足できないゲームをいくらMODで改造しても満足できるようになるとは限らないが、素の状態で満足できるゲームであれば、プレイヤー間でMOD情報を共有することで、もっと楽しい自分好みのゲームに作り変えることができる。

すでに世界中のゲームプレイヤーたちが、自分のゲームを自由にプレイすることに慣れた土俵で、プレイヤーに自由を与えずとも、いかにその気にさせるか。ドラゴンクエストシリーズが戦わなければならないのはそういう土俵の上なのである。

僕にとっては、ドラクエXIは十分な満足を与えてはくれなかった。それは中盤のストーリーがとても良く、仲間たちに愛着を持ちすぎてしまったせいで終盤に納得ができなかったからだ。もし凡庸なRPGであれば、高揚感もなく、ただ「そういうゲーム」として十分納得してプレイしていたはずである。

ドラゴンクエストシリーズはそういうゲームではない。ドラゴンクエストシリーズには、日本のRPGとしてのフラッグシップであってほしい。少なくとも僕はそう考えている。

いつか発売されるであろうドラゴンクエスト12では、十分満足を与えてくれるゲームを生み出してくれるだろうと願っている。

赤木 智弘 フリーライター

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あかぎ ともひろ / Tomohiro Akagi

1975年栃木県生まれ。2007年にフリーターとして働きながら『論座』に「『丸山眞男』をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争。」を執筆し、話題を呼ぶ。以後、貧困問題などをテーマに執筆。主な著書に『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』などがある。

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