1週間で再開 被災工場で見たトヨタの現場力

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1週間で再開 被災工場で見たトヨタの現場力

被災したリケンの柏崎工場には、約800人もの自動車メーカーの派遣要員が集結した。トヨタを中心とした「緊急展開部隊」は、復旧に向け現場でどう機能したのか。(『週刊東洋経済』8月4日号より)

 7月20日。新潟県中越沖地震に見舞われ、操業停止に追い込まれた自動車部品大手リケンの柏崎工場(新潟県柏崎市)。雨が降りつける中、急ピッチで復旧作業が進められていた。

 工場建屋の傍らで行われていたのはバケツリレー。断水の影響で工場への給水をタンクローリーに頼ったが、大型車は給水ポンプがある敷地奥まで進入できない。そのため、タンクローリーの水をいったんバケツに入れ、それを人海戦術で運んでいたのである。

 20人ほどのその一群には、リケン社員のほかにスズキなど自動車メーカーの作業服姿も見えた。リーダーらしき男性の背中にあったのは「TOYOTA」のロゴだった。

JIT生産の功罪

 柏崎工場で生産するのはエンジンの重要部品ピストンリング。同工場の操業停止を受け、自動車メーカー12社もほぼ全面的に生産停止となった。「再開までに数カ月かかる」との見方もあった中、リケンは地震発生から1週間で操業再開にこぎ着けた。自動車メーカーの生産停止は、実質3日間程度だった。

 思ったよりも早期に事態が好転した背景には、自動車メーカーによる全面支援があった。各社が派遣した人員は総勢800人。リケンだけでなく周辺の部品会社にも展開して、横倒しになった設備の再配置や稼働の確認などに奔走した。リケンの駐車場はそうした派遣要員が乗りつけた車で満杯だったが、ひときわ目についたのは「三河ナンバー」のトヨタ車だった。

 トヨタ自動車は他社に先駆けて、地震発生直後に先発部隊の約20人を派遣。状況を確認しながら、まずプラントエンジニアリング部門、次に生産管理部門と、復旧のプロセスに熟達した要員を段階的に送り込んだ。その数は総勢400人にも上った。

 かつての教訓も生かされた。内山田竹志副社長によると、1995年の阪神大震災では「現地に派遣された社員の間で、情報が流れなかった」のが反省点。今回の派遣部隊の統括者は阪神大震災を経験した生産部門の社員。現地でのミーティングを欠かさず、トヨタ本社に設置した対策本部との連絡も密にした。

 早期復旧のもう一つの要因として、トヨタ生産方式の利点も挙げられる。組立工程に合わせて必要な部品を必要な時に供給する「ジャスト・イン・タイム(JIT)生産」では、ほとんど在庫を持たない。そのため、たった一つの部品供給が滞っただけでもライン全体が止まる弱点がある。今回はそれが露呈した。

 だが、23日に都内で開かれた会見において、渡辺捷昭社長は、むしろトヨタ生産方式の優位性を強調した。「どういう手を打てば、現場が早く立ち上がるかを把握している」というのだ。JIT方式は部品や設備ごとに細かな管理をするため、問題の決定的原因を即座に突き止めることができる。このノウハウが復旧作業でも生かされたという。現地の鋳造ラインでは、2人のトヨタ社員が大きな設備に張り付き、問題点を確認している光景が見られた。

 ただ、課題も浮き彫りとなった。特定メーカーに依存する部品供給体制の脆弱性だ。ピストンリングは高度な技術を必要とする部品で、自動車メーカーと部品メーカーが一体開発することもあり、急に代替部品を調達することは難しい。リケンの国内シェアは5割にも達し、トヨタも3割を依存していた。今後は調達先の分散化を検討する必要があるのではないか。

 日本の自動車生産ラインが一斉に止まった異例の事態。計12万台分の生産が遅延した。ただ、当初の悲観的な見方を覆し、比較的短期間に生産停止から脱することができたのは、現場に徹し続けた自動車産業の底力ともいえる。

(書き手:梅咲恵司、西澤佑介)

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