小池都知事の「身勝手な論理」がもたらす災厄 豊洲移転延期で「混乱を防げた」と言うが…
その原因は、築地市場の豊洲移転問題を見るだけでも明らかなのだが、ここ1年数カ月の都知事としての実績だけで小池知事の政治的手腕を判断するべきではないだろう。1992年に参院選で当選してから2016年に知事選出馬のために衆議院議員を辞職するまでの24年間を見なければ、その人となりや能力はわからない。
筆者は永田町に来た1995年から小池氏を見てきたが、「風に乗ろうとしている人、風を起こそうとしている人」という印象は変わらない。言い換えれば「目の覚めるような功績」はない。
実は目立った実績がない
環境相時代に「クールビズ」を普及させた点を功績としてカウントする向きもあるが、これは小池氏の専売特許ではない。すでに1997年に京都でCOP3が開かれるなど、環境問題は世界的課題となっており、日本でもその対策が真剣に検討され始めていた。小池氏はカリユシのファッションショーを開くなど、それを広める能力に長けていたということだ。
その一方で、2004年10月15日にチッソ水俣病関西訴訟の最高裁判決が出され、国と熊本県に賠償責任を認められたにもかかわらず、環境相だった小池氏はなかなか被害者救済に動かなかった。2006年3月17日の衆議院環境委員会では非情にも、「認定基準の見直しについては、環境省は考えていない」と答弁している。
また2007年7月に女性初の防衛相に就任した時、任期が4年以上に及ぶ守屋武昌事務次官の首を獲ろうとして失敗した。しかもそのやり方はルールに基づいたものではなく、事務次官だった守屋氏への連絡も携帯をワン切りして着信歴を残すのみで、知らせるつもりはないことは明らかだった。
そのような人が、「(何かを)変える」ということだけを目的にして、大きな権限をもつ都知事に就任すれば何が起きるか。メディア受けする小手先の改革にまい進するため、混乱が生じてしまうのは当然の帰結だ。
国政政党である「希望の党」の結成においても、目立つのは混乱ばかりだった。「国政は若狭に任せる」と言ったものの、小池知事は若狭勝氏や細野豪志氏が積み上げてきた準備行為を全てリセットし、自ら希望の党を立ち上げたが、その人気は瞬く間に沈み込んでしまった。
国政をも牛耳ろうとした小池知事の希望の党が当初の予想に反して伸びず、小池知事に排除された立憲民主党が躍進したのは皮肉だが、その原因はひとえに小池知事の“人望”のなさにある。永田町ではリーダーの浮き沈みに周囲が巻き込まれるのはよくあることだ。
なぜ小池知事の人気は急速に高まり、急速に沈んだのか。そして、都民、国民は、このあとどのようなツケを払わされるのか。小池問題は「過去の話」ではない。2018年にも大いに注目する必要がある。
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