「織田徳川vs武田」長篠の戦い、通説の9割は嘘 「騎馬隊も3段撃ちも…」最新の日本史を紹介
信長が派遣した別働隊により、設楽原での決戦の日に救援されました。
決戦の前日、信長はひそかに自らの親衛隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、翌日の設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救いました。
これで、織田・徳川連合軍の当初の目的だった「長篠城の救援」は達成されたうえに、設楽原でも「武田軍本隊に壊滅的な打撃を与える」という思わぬボーナスが追加されたため、勝利の印象がより鮮烈なものとなりました。
「新たな史料の発見」で日本史は大きく変化している
戦国時代後期には、鉄砲が戦場での主要兵器となり、「合戦の様相」はそれまでとは大きく変わりました。
信長はこの鉄砲にいち早く着目し、鉄砲の力で天下統一を目指したことは間違いありません。ただし、彼の前に立ちはだかるライバルたちも、鉄砲を手にしていました。
なかでも大坂の石山本願寺は、鉄砲の製造と使用に秀でた雑賀衆(さいかしゅう)とともに激しく抵抗を続け、信長はその攻略に11年もの歳月がかかったことで、道半ばで生涯を閉じる結果となったのです。
日本史では「新たな史料」の発見や研究の成果により、しばしば「史実」が置き換わっています。
教科書でそれまで「常識」とされていた内容でも、変更や削除、まったくの新事項の追加が行われています。特に「最近の記載の変化」は目まぐるしいものがあります。
今回の「長篠の戦い」のように、「かつて学校で習った日本史」と「最新の日本史」では、実態が大きく異なるケースが多々あります。
ぜひ「最新の日本史」を学ぶことで、その違いを実感しつつ、「大人に必要な教養」までいっきに身につけてください。
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