「織田徳川vs武田」長篠の戦い、通説の9割は嘘 「騎馬隊も3段撃ちも…」最新の日本史を紹介
一方、武田軍についても「新たな見解」が提示されています。
騎馬隊という幻想
この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍(やり)、弓などの兵を集め、戦場でもこれらの兵種が混在した形で集団行動をしていました。
これは武田氏でも同じです。つまり、「騎馬隊」と呼べるような兵団は存在しませんでした。
さらに、当時の軍役から兵種を分類してみると、「武田軍の騎兵の割合は全体の1割程度」だったこともわかっています。
ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は、体が小さい種類でした。現代のサラブレッドは体高がおよそ150~170cm超ありますが、当時日本にいた馬は120cmほど。今でいう「ポニー」に近い体型でした。
「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原は、「原」という地名からは開けた場所がイメージされます。
しかし戦場となった場所は、南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川(連吾川)が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠いロケーションでした。
決戦時、織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していました。
特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀(からぼり)や土塁、切岸(きりぎし)を築くと、全体に柵(さく)をめぐらせ、高低差を利用して武田軍を迎えました。
そのため、この戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というよりむしろ「城攻め」に近く、馬での戦闘には不向きでした。
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