「織田徳川vs武田」長篠の戦い、通説の9割は嘘 「騎馬隊も3段撃ちも…」最新の日本史を紹介
信用できるものは多くありません。「最も史料的価値が高い」と考えられる信長の書状などには、残念ながら戦いの顚末は詳しく書かれていません。
そうした中で、信長の家臣だった太田牛一(ぎゅういち・1527〜?)が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は、記述に具体性もあって全体的に正確であるとされ、誤りも幾分あるものの、「現時点では最も信頼できる史料」と考えられています。
「1000挺一斉射撃」は荒唐無稽だ
「長篠の戦い」について、近年では『信長公記』や現地での発掘調査の結果なども基に検証が行われ、これまでとは「異なる解釈」が行われるようになっています。
戦場となった設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3000挺もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。
そもそも3000という数は、小説である『信長記』に記されている話です。『信長公記』には、信長は各部将から少しずつ銃兵を集めて1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したと記されており、実際には「3000よりも少なかった」と思われます。
いわゆる「3段撃ち」のエピソードも、やはり小説である『信長記』に書かれた話です。
突撃してくる武田軍に対し、信長が「敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。1町(約100m)まで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て」と命じる場面があり、この内容が基となって定着しました。
ただ、信頼できる史料では「3段撃ち」については一言も触れられておらず、『信長公記』でも、鉄砲を「さんざんに」撃ちまくったとあるのみです。
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