「無意味で過剰」な放送が日本にあふれる理由

駅ホームで「京都、京都です」の放送は必要か

というわけで、一見(一聞?)なんの効果もないように思えるこうした垂れ流し放送のすべてが、じつは国民大多数の検閲をくぐっている。都内のある公園では、「犬を散歩させている人は犬の糞の始末に気をつけましょう!」という放送が広い園内に響き渡り、ある霊園では、読経の声もかき消えるくらいに「置き引きに注意しましょう!」という大音響放送がこれまた広い園内に流れ、新宿西口から都庁に向かうガード内では朝晩「接触事故に注意しましょう!」という放送が流れる。商店街には、「寝たばこに注意しましょう!」とか「車に乗るときには、シートベルをしましょう!」という管理放送が流れる。

ある私鉄では、ここ20年くらい「駅構内では喫煙をご遠慮ください」という放送が流れますが、もう10年くらい駅構内でタバコを吸っている人を見かけない。新幹線の車内では京都に着く直前にうるさいほど「京都、京都、次は京都です」という放送が流れ、多くの降りる客が列をなしているのだから、そのうえホームで「京都、京都」という放送を流す必要はないはずです。

それに郵便局の「○○番の番号札をお持ちの方、窓口にどうぞ」という放送も昔はなかったし、だいたい銀行のATMが「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」という必要がない。ATMは、不法な送金をする人に対しても、他人の暗唱番号を盗んで預金を引き出す人に対しても同じように「挨拶」するのであって、人間をセンサーで感知する物体としてしかみなしていないのです。

とはいえ、こうした放送に対して「必要ない」と真剣に抗議するのは、われわれ(「静かな街を考える会」のメンバー)くらいのものでしょうね。こうして、ほとんど効果がなくても(その実験もできず)、ほとんどの人が苦痛を感じないのですから、1度設置された「音」は、ほぼ永久に流され続けるというわけです。

ただし、まったく無駄な運動だと思われている人に向かって、ちょっと付け加えると、2000年から約10年間、試行的に山陽新幹線の1部に車内放送がない「サイレンスカー」が実現されたことがあります。車内放送は流れず停車駅は電光掲示板のみで知らせ、すべては乗客の自己責任だというわけです(それが廃止された経過は知りませんが)。私たちの運動が、まったく無視されているわけではないのです。

哲学者の仕事は「解決がつかないこと」を考えること

今回はこのくらいにしますが、これは倫理学の大問題にかかわっていることを最後に付け加えましょう。というのは、「コメント」を寄せる少なからぬ人が、「哲学者ならもっと重要なことを考えろ!」と叫んでいるからです。こうした御仁は、たぶん「哲学」とは何か、まったく知らないで言っているのだと思いますが、哲学者はけっしてみんなにとって(いわゆる)重要な問題を考えるのではない。そんなことは、社会学者や政治学者、あるいは、政治家や評論家に任せておけばいいのです。

次ページ「音」の問題は、倫理学と感受性にまたがる大問題
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