バートランド・ラッセルは、科学者の仕事は「解決がつくこと」を考えること、哲学者の仕事は「解決がつかないこと」を考えることだとしましたが、まさにそのとおり。言いかえますと、科学者は問題を解決できるように変形して考える。だから、いかなる物理学者も「存在論」や「認識論」に立ち入らないし、いかなる心理学者も「自我論」には立ち入らないし、いかなる政治学者も「倫理学」には立ち入らない。
存在、真理、時間、自我、善、悪……が何であるかまったくわからないのに、彼らは「まあいいか」と思い込むことによって、解決されるように変形された「重要な問題」を抉(えぐ)り出すのです。
「音」の問題は、倫理学と感受性にまたがる大問題ですから、その解決は誰にもわからない。私(および「静かな街を考える会」の仲間たちは)こうした音に吐き気がするほどの不快を感じるのですが、ほとんどの人はそうではない。こうした「音」を流すべきかそうでないか、議論しても決着がつかないのは、「べき」が各個人の感受性(快・不快)に根を張っているからです。
「道徳的善」は理性と情緒、どちらに基づく?
「道徳的善」は理性に基づくという立場(その典型がカント)と、情緒に基づくという立場(その典型がヒューム)との対立となって、哲学者たちはこの200年以上にわたって議論しています。前者の理性主義だと、理性的判断だけでは、はたしてこうした「音」があるほうがいいか、ないほうがいいかは決まらず、後者の情緒主義の立場だと、Aが「私は不快だ」と主張しても、Bが「私は不快じゃない」と同じく主張できてしまい、また決着がつかない。
現代の代表的な倫理学者の1人であるマッキーは、道徳的善は普遍化しなければならない(すべての人にとって成り立たねばならない)というカント以来の問題に取り組み、普遍化の3段階を考えました。第1段階は、「俺だから許される、お前だから許されない」というエゴイズムの禁止であり、いかなる理性的な人もこうした理屈を認めないのはいいでしょう。
そして、第2段階は、想像力によって他人の立場を理解するように努める段階です。ほとんどの法的・社会的平等はこのレベルであって、男は女ではないけれど、白人は黒人ではないけれど、健常者は障碍者ではないけれど、「相手の立場がわかる」と(無理にでも)みなされるべき、というわけです。
しかし、最後の第3段階の感受性や信念を配慮すべきの段階になると、普遍化は頓挫します。イスラム原理主義者はキリスト教原理主義者の気持ちがわからないし、甘党は辛党の気持ちがわからない。「わかる」としても頭でわかっているだけであり、相手の「趣向」を拒否することは変わらないのです。こうして銀行に行くたびに「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」とATMが挨拶することに別に不快感を覚えないほとんどの同胞は、その前で立ちすくみアイポッドの音量を最大にして操作をする私のような人間の気持ちがわからないのです。
そして、わからないままに、私のような問題を提起する者は、「公共空間」において、同じ税金を払い、同じ運賃を払い、同じ価格の物を買っても、感受性が他の人と多少違っているために、日々刻々と差別待遇を受ける、しかもほとんどの人はわかってくれない、いや、この連載に対する反論にあるように、「わがままだ」と「迫害」されさえする……というわけで、ここには、2500年に及ぶ倫理学上、最も難しい大問題が横たわっていることが、ぼんやりとでもおわかりいただけたかと思います。
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