私の将棋でいえば、これまでに2505回の対局を積み重ねてきたのですが、いかなる場合も元気で戦ってきたわけです。対局の前に「負けるかもしれない」と思ったことはただの1度もありません。それは若い頃から一貫していて、当時の名人に挑戦する際にもありませんでした。今思うと、2505の対局は、音楽に当てはめてみると2505回のコンサートのようにも感じられます。
――将棋好きとして知られる指揮者の小林研一郎さん(アマチュア最高峰のアマ五段)は記憶力がすごくて、「第九」公演のときに、初顔合わせの合唱団員全員の名前をその場で覚えてしまうそうです。それを証明するために、ばらばらに並びなおさせた団員の名前をすべて完璧に当てるそうです。これは音楽家が楽譜を記憶することや棋士の記憶力にも共通することではないでしょうか。
ひやー、それはすごいですねえ。将棋には棋譜というものがあります。その棋譜を見れば50年前の対局のときに考えた内容でも95%程度は思い出せます。今でも棋譜さえあれば、ここはこうした、ここはこうすればいちばんいいんだといったことや、1時間以上考えたことや考えた内容まで思い出せます。対局の場所や状況も同様に思い出せます。それは音楽家が楽譜を見てさまざまなことを思い出すのと似ているかもしれませんね。
印象的なのは、ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテルが「暗譜で演奏するために晩年はレパートリーを広げることが難しかった」と語っていたことです。これは推察ですが、もし楽譜を見て演奏することができたならば、レパートリーを広げてもっと多くの曲を弾くことができたのかもしれないわけです。あの巨匠リヒテルにしてもそうなのかと思うと感動しましたね。
――話は変わりますが、先生はメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」がお好きだと伺っています。
「スコットランド」は大好きで5種類ぐらいのCDを聴いていますが、いちばん感動するのは深々とした演奏を聞かせてくれるヘルベルト・フォン・カラヤン盤ですね。言い伝えによると、スコットランドを旅したメンデルスゾーンが古い教会に入った際にメロディが浮かんできて、その後10年をかけてこの名曲を完成させたということです。教会でのインスピレーションと10年の歳月に心惹かれますね。
私は42歳のときに名人になったのですが、「名人になれる!」という強い確信を持ったのがほぼ10年前でした。そして精進の結果名人になれたのは9年後です。メンデルスゾーンは10年かけて「スコットランド」を作り、私は9年かけて名人になったというわけです(笑)。
「アマデウス」はすばらしい
――加藤九段の勝利です。メンデルスゾーンに勝ちましたね(笑)。ほかに思い入れの強い作曲家は誰でしょうか。
モーツァルトは昔からよく聴いていますし、映画『アマデウス』も大好きで何度も観ています。この映画によってこれまで知らなかったモーツァルトの作品をたくさん知ることができました。たとえば「ピアノ協奏曲の第22番」です。以前、池辺晋一郎さんの番組に出演させていただいた際に22番が好きだという話をしたところ、池辺さんが「この曲を好きな人は変わっていますし、少ないですよ」とおっしゃいました。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら