こうして雷門が復活し、常盤堂にも追い風が吹く中、バブル期に穂刈家2代目の幸雄氏に代替わりした常盤堂は、拡大路線で攻めの経営を展開していく。生産拠点を増やし、販売網も全国に広げる中で知名度の向上に努めた。生産工場は3拠点。販売拠点は札幌、東京、大阪、福岡に有し、1991年9月期には、年間売上高約50億600万円を計上している。
が、この攻めの経営が仇になった。バブル期の常盤堂は不動産投資にのめり込み、バブル崩壊後に大損失を抱えていたのだ。不動産を買い、その不動産を担保に借金をして、また新たな不動産を買う。当時としては決して珍しいことではなかったが、これにより、1990年代前半には金利約6%の借入金が約75億円に膨れ上がっていた。
巨額の借金、2代目の死
さらに不運は続く。その後、1996年に2代目の幸雄氏が胆管がんで死去し、息子の久米一氏(当時36歳)が3代目社長に就任。巨額の借金を背負っただけでなく、このピンチを3代目の新人社長が背負うことになった。会社存続の危機である。
しかし、今振り返ってみれば結果としてこの大ピンチが会社を救った。一般的に、成長戦略を実現した社長は、リストラなどの縮小路線を進めるべき場面でも、過去の成功体験にとらわれ、無理な事業拡大を推し進めて会社を倒産に導くケースがある。また、自らが作り上げた事業、出店拠点、取得不動産に対する思い入れが強すぎてリストラが進まないというのは心情的にうなずける。
この点において、3代目久米一新社長は過去にとらわれることなく大ナタを振るった。まず、「浅草土産が全国どこでも購入可能なのはおかしい」と、赤字拠点となっていた札幌、大阪の営業拠点から撤退。時期をみて福岡の拠点も閉めた。閉店に伴う販売数の減少を見込んで、生産拠点も1カ所に集約した。こうしたリストラを実行すれば、従業員のクビを切らなければならないのが苦しいところ。ただ、会社が潰れたら従業員全員が路頭に迷い、常盤堂の暖簾が途絶えるおそれもある。久米一社長は心を痛めながらも、縮小路線を押し進めた。
雷おこしの製法自体も抜本的に改革した。従来の雷おこしは、米100%のポン菓子に水あめをぜいたくに絡めて製造していたが、これだと固い食感になってしまい、消費者には「雷おこし=堅い」というイメージが定着していた。それでは時代に合わないと直感。ポン菓子の部分を「米50%、小麦25%、でんぷん粉25%」の割合でつくったパフで代用し、水あめはなるべく薄くコーティングするように切り替えた。
この改良によって、従来よりもサクッとした食感で、幅広い年代にとって食べやすくなった。番頭からは「伝統銘菓をスナック菓子にする気か!」と反感を買ったが、最終的には、久米一氏の意見を押し通すことができ、結果的には売り上げに貢献した。
久米一社長は、社長就任当初のことを振り返ってこう語る。「昔は包装紙のデザインひとつ変えさせてもらえなかった。親不孝な発言ですが、早期に父親を亡くしたことで、実行できた経営改革がたくさんありました」。
その結果、売上高は約20億円まで縮小したが、その分借金も30億円台まで返済することができた。
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