日本人の「心」を伝えるインド人クリエーター 新世代リーダー クリエイティブディレクター マンジョット・ベディ
外交官だった父の仕事で、2歳からオマーン、オーストリア、イギリスなど、およそ15カ国で暮らした。慣れない学校で友達を作らなければならず、家に帰れば、毎週父の仕事関係のパーティに出なければいけない日々は、嫌で仕方なかったという。母親が決まってくれるアドバイスは「もうちょっと自分から会話してみれば?」という一言。
自分から壁を作らないで、という教えはしだいに異文化に対する理解と興味へと変わっていった。その国で感じる「匂い」と「色」を大事にするようになった。それは、知らず知らずのうちに異国の生活文化を五感で読み取り、そこに自分が溶け込んでいくという独自のコミュニケーションスキルを養った。
日本でコミュニケーションを自分の仕事にすると決意
17歳のときに初来日。到着した日の夜、マンジョット一家は出先からの帰り道に迷ってしまう。父が自宅のそばのコンビニエンスストアで牛乳を買ったことを思い出し、ポケットから取り出したレシートを、道を通り過ぎる人に見せた。「このレシートに書いてある住所のところへ行きたいのです」。
突然のインド人一家に、牛乳のレシートを渡されたその人は、驚きながらも、自分が帰る方向とは違う住所まで歩いて連れて行ってくれた。世界各地で生活をしてきたマンジョットにとって、それは「ほかのどの国でもありえなかった」体験だった。この好印象は変わることなく、日本人のおもてなしや礼儀を重んじる心、目に見えないものを大事にする価値観に引かれていく。
大学に入り、アルバイトがきっかけで映像や写真を通してものの魅力を伝える仕事にかかわりたいと思うようになった。両親はインドに帰ることになったが、マンジョットは日本に残りそのまま映像の世界に入った。しかし、いざ仕事を本格的に始めると、言葉の壁が大きく立ちはだかった。語学に堪能だったとはいえ、「ものの魅力を伝える仕事」には、言葉を適切に理解し、自分の視点で解釈して、そこに新たな価値を見いだす言葉を紡がなくてはいけない。本屋に通い、夜中まで絵画から映像、デザイン、日本語などあらゆる本を読みあさった。
何度も自分には無理なのかもしれないと思いながらも、生来の負けず嫌いの性格で、自分にとってベストな仕事を模索しながら、役者、カメラマン、映像制作などさまざまな職種に挑戦した。27歳のとき、「これで成功しなかったらインドに帰ろう」という覚悟で、現在の広告会社株式会社ティー・ワイ・オーに入社。
ここで今まで培ってきたものが花開く。世界各地を転々として磨かれた「匂い」と「色」に対する感性、初対面の相手とも垣根を越えて打ち解けあえるコミュニケーションスキル、映像にかかわるさまざまな職種で得られた視点、すべてがつながった。「石の上にも3年と言うけれど、コツコツやってきたことがすべてつながった」。クリエイティブ・ディレクターとしての快進撃が始まった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら