「人喰い」に魅せられた男の七転び八起き人生 神保町の「異色」古書店はこうして生まれた

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高校を卒業後、専門学校でも製図を習い、都内にある製図会社に就職した。バイクの部品などを三面図から、立体図に書き上げる仕事だったのだが、楽しくて仕方がなかった。

天職だと思っていたが…

「当時の仕事を今見ると、われながらうまいな~と思います。先輩よりうまく書けてると思っていたし、『天職だ!!』と思ってました。ただ、今思うと、丁寧な仕事をするぶん、仕事が遅くて、会社から見ると困った社員の1人だったんでしょうね」

4年ほど仕事を続けた。

立体図を書くという作業はずっと楽しかったのだが、会社に行って、上司の下で働くというのが、嫌になっていた。

そんな頃、当時大変人気のあった、歌謡曲の同人誌『よい子の歌謡曲』に出会い、自分も参加したいと考えた。

もともと投稿は好きで、『週刊少年サンデー』や、『月刊スーパーマン』といった雑誌にイラストを送りよく掲載されていたのだが、文章は送ったことがほとんどなかった。『よい子の歌謡曲』に載るためには、アイドルのレビューなどの文章を書かなければならない。

「文章なんて書いたこともなかったんだけど、とにかく見よう見まねでレビューを書きました」

どうやったら載るかを戦略的に考えた。当時大人気の、松田聖子や小泉今日子は書きたい人が多いし、大物ライターが書くから、載りづらくなる。あえて、あまり注目されないマイナーなアイドルを探してきて良さを語ったりした。

めでたく掲載されて、編集部にも遊びに行くようになった。

「そうやって同人ライターをしている間に、僕は、フリーランスで作品を作りたかったんだ、と気づきました」

1983年に雑誌編集者、音楽評論家である、高護さんから『ザ・シングル盤50's~80's』というタイトルのムック本で原稿を書かないか?と声がかかった。

歌謡曲のシングル盤についてレビューを書く。これがプロのライターとしての初仕事になった。そしてデビューした翌年の、1984年にとっとと会社を辞めてしまった。

「今の自分が当時の自分にアドバイスできるなら、『やめるな!!』と全力で止めますけどね。もっと実績積んでから独立しなさい、と」

当時は、えのきどいちろう、押切伸一、杉森昌武など憧れのフリーライター第1世代がブイブイ言わせていた時代だ。「フリーライター、カッコイイ!!」と舞い上がっていたが、実際には仕事はほとんどこなかった。

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