「人喰い」に魅せられた男の七転び八起き人生 神保町の「異色」古書店はこうして生まれた

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「よし、ゲームライターとして本腰を入れるぞ!!」と思ったところで、編集に声をかけられた。

「とみさわくん、アイドルに詳しいんだって? アイドルにゲームやらせるコーナーを担当してよ!!」

と頼まれた。

「アイドルについて書きたいときはゲームについて書かされて、ゲームについて書くぞと決めたら、アイドルの仕事が回ってきて。人生うまくいかないもんだなと思いました」

当時のファミコン雑誌にはアイドルのつてなどなく、アイドルの人選、スタジオやカメラマンの手配など、すべて自分でやらなければならなかった。フリーライターとしてずいぶん鍛えられた。

世はファミコン全盛期。ゲーム雑誌は雨後の筍のように増えたし、原稿料も悪くなかった。

そんな中、『週刊少年ジャンプ』から、連載の話が来る。『ファミコン神拳』という巻頭の人気企画に、カルロスというキャラクターで参加することになったのだ。当時、『週刊少年ジャンプ』は640万部も売れていた黄金期で、『北斗の拳』『ドラゴンボール』『キャプテン翼』『聖闘士星矢』……そんな伝説的な漫画が全部連載していた。

「いやあ感慨深かったですよ。中学校のとき、手塚治虫賞をあきらめたこの俺が、ジャンプで書くとは!!って(笑)」

田尻智氏との出会い

ジャンプの連載と並行して『ファミコン通信』でも仕事をしていたのだが、当時フリーライターをしていた、田尻智氏と仲良くなった。

田尻智氏は後に、「ポケットモンスター」を開発し、その名を全世界に轟(とどろ)かせる人物だ。田尻智氏は、ゲームフリークという集団を作っており、そこによく遊びに行っていた。当時ゲームフリークは、ゲームセンターの攻略本を作っていたのだが、自分たちでゲームを開発しようという話になっていた。

「自分たちで開発用の機材を作り、ファミコン用のゲームを作っていたんですよ。とんでもないことしてるな、こいつら!!と思いました」

とみさわさんもゲームフリークに混ざり、アイデアを出したり、テストプレーに参加したりした。そして「クインティ」というゲームが発売され、20万本以上を売り上げるヒット作になった。そしてゲームフリークは、株式会社ゲームフリークになった。

「田尻さんに入社を勧められていたんだけど、最初は年下が作った会社に入るのはプライドが許さないって拒んでいたんです。でも、当時請け負っていた仕事はゲームフリークのものばかりだったし、何よりせっかく天才と知り合えたんだから、もう少し付き合うか、と思って入社しました」

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