アダルト本を中心に発刊している出版社で、アイドルにインタビューする仕事などをちょこちょこともらっていたが、月収3万円にもいかず、実家で細々と暮らしていた。それでも頑張っているうちに、少しずつアイドルライターとしての仕事は増えていったが、そう言っている間にアイドルブーム自体が終わってしまった。世はバンドブーム、「ロック最高!!」と言われる時代になった。
「アイドル雑誌の代名詞的存在の、『明星』『平凡』すらなくなりました。生き残ったアイドル雑誌は、学習研究社の『Momoco』『BOMB!』、集英社の『DUNK』ぐらいになっちゃったんだけど、コネがなかったから仕事は来ませんでした」
業界内は、アイドルライター同士の仕事の奪い合いになっていったが、とみさわさんは他人から仕事を奪ってまで書く!!というタイプのライターではなかった。
「仕事が、全然なくて暇だったので、一日中、家でファミコンをやってました。そうしたら『月刊スコラ』から、ファミコンの記事を書かないか?と声をかけられました」
憧れの雑誌からのお誘い
『月刊スコラ』は講談社系のメジャー雑誌だった。世はバブル時代で、最初の打ち合わせから高級焼き肉店に連れて行かれた。アダルト本の出版社で仕事し、自腹でほか弁を食べていたのに比べたら雲泥の差だった。
憧れの雑誌で記事を書けたのはうれしかったのだが、不満もあった。スコラはアイドルグラビアがメインの雑誌であるため、アイドルの原稿はA級のライターが書く。白黒の記事ページは、2番手のライターが執筆する。
「巻末のファミコンページを書いているライターは正直、3流ライター扱いだったんですよ。バカにされている。アイドルライターなのにアイドルについては書けないし、悔しかった。だったら、ゲーム雑誌でちゃんと誇りを持ってゲーム記事を書こうじゃないか、と決めました」
当時はファミコン人気に相まって、『ファミリーコンピュータMagazine』『ファミコン通信』などのファミコン雑誌が売れに売れていた。当時のファミコン雑誌は、ゲームに詳しいだけの人が多く、文章が書ける人があまりいなかった。とみさわさんは、アイドルライター時代に文章が鍛えられていたので、ゲームライターの中では珍しい“文章を書けるライター”として頭角を現していった。
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