「一汁一菜本」の礼賛に何となく感じる違和感 確かに時代にマッチした提案ではあるが
主婦が料理に手をかけた背景はもうひとつある。1985年に厚生省(現厚生労働省)が、「健康づくりのための食生活指針」を出し、1日30種類の食材を摂るよう提唱したのだ。バラエティ豊かな食材を使うために、必然的に料理の品数は増え、毎食違うものを作るプレッシャーが生じる。
しかし、「栄養バランスに富んだ多様なおかずがそろう食卓」を日々整えることは、相当の労働力を要することだ。多くの女性が専業主婦だったから成り立っていた側面もある。共働きが多数派になり、シングルも増えた今、40年前と同じ食卓を保つことは難しい。見直しが必要になるのは当然のことで、土井氏「一汁一菜」提案は時機を得たものだったといえる。
親の愛情を強調しすぎではないか
だが、『一汁一菜~』にはもう1つ問題だと感じる点がある。それは、親の愛情を強調することで、新たな呪縛を産みかねないことだ。献立はシンプルで良いとしつつ、土井氏は「料理は愛情」という、真逆とも取られかねないメッセージを強調する。
親から抑圧を受けたなど、家族に恵まれなかった人は、この本を読んで疎外感を覚えるかもしれない。また、「献身的な母親」という理想を求められがちな、子育て世代の女性をさらに苦しめる可能性もある。つまり、多様な背景を持つ読者に対する配慮が足りないのだ。
いくつかの問題を含みながらも、多彩な料理を提案する立場にある人が、自らの日常の食卓を公開し、あえてシンプルな食事を提案したことは傾聴に値する。そして、この言葉はすでに、良い意味で一人歩きを始めている。たとえば、『料理通信』7月号では、「私の、一汁一菜」という特集で、シェフや料理家、作家などのシンプルな食卓を紹介。その多くは味噌汁でなくスープを選んでおり、中にはお焼きと炒め物などの組み合わせもある。
かつて一汁三菜がその時代を反映した食卓であるならば、多様な解釈を含む一汁一菜はまさに今、求められている食事スタイルに違いない。私たちはそろそろ、親の時代の理想という呪縛から解放されてもよい頃だ。
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