資本主義が「中毒症」を生み出すメカニズム 2人の「ノーベル賞」受賞者が鳴らす警鐘
モリーは自分の問題を熟知している。別に勝つつもりでスロットマシンに向かうわけではない。負けるのは承知のうえだ。彼女を動かしているのはむしろ強迫観念だ。そして、ギャンブルに没頭してしまうと孤独になる。その行動は素早くて連続的だ。「ゾーン」に入り込んでしまう。
赤いボタンを押す。光とショーが始まる。勝ったり負けたりする。赤いボタンをもう1回押す。そしてもう1回。もう1回。さらにもう1回。さらに……としているうちにおカネが底をつく。
モリーはラスベガスの特異例なんかではない。10年前には、カジノでの心筋梗塞による死亡は大きな問題だった。救急担当者たちがギャンブラーたちに道をふさがれて現場にたどりつけないのだ。とうとうカジノは、独自の心臓発作対策専門チームを置くようになった。
ある監視ビデオを見ると、なぜそんな特別チームが必要なのかわかる。そのビデオでは、カジノのプレーヤーが心筋梗塞になり、チームが心肺蘇生を行っているのに、まわりのプレーヤーたちはそのままギャンブルを続ける。被害者が文字どおり足元に倒れているのに、没頭状態から脱する様子もない。
自由市場は何をしてくれるのか
1890年代から現在に至る、スロットマシンの是非をめぐる歴史は、市場経済についての私たちの二重の見方をよく示してくれるものでもある。最も基本的なところで、私たちは市場をたたえる。自由市場は平和と自由の産物であり、人々が恐怖におびえていない安定した時代に花開く。
でも、ほしいものを与えてくれる開く箱を作ったのと同じ利潤動機が、中毒性の車輪を回し、その特権と引き換えにおカネを奪うスロットマシンも創り出した。
本書のほとんどは、スロットマシンのよい面よりは、いわばスロットマシンの悪い面を扱うものだ。経済思想と経済そのものの改革論者である私たちは、世界ですでに正しいものを変えるつもりはなく、まちがっているものを変えたいと思っているからだ。でもそれを始める前に、市場が私たちのために何をしてくれるのかを見直すべきだ。
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