日本の「英語対策」は危うい方へ向かっている 翻訳は単なる単語の置き換えではない
指さし会話シートやMT、翻訳アプリなどは、言語における理解の溝を埋める魅力的な応急処置に見えるかもしれないが、実際にはこうした技術開発に力を入れることは、資金、そして労力をかけずに言葉の壁を乗り越えようという手抜き策に過ぎないのである。
必要なのはその場しのぎの英語力ではなく、2020年以降もこの国の発展に役立つような英語(あるいは中国語やスペイン語)なのである。それが前提になければ、オリンピック期間中の日本における対人的なやり取りは冷たく、心を欠いたおもてなしとなるだろう。
表面的な英語教育の見直しを
こんな場面を想像してみてほしい。大会の日本人スタッフと外国人観光客が静かにスマホ画面を見ながら、あるいは、紙切れに書いた言葉を指さしながら、お互い出会ったことなども気にせずに、次の場所に向かうためだけにやり取りしている場面を。
一方、こんな場面はどうだろうか。日本人スタッフが完璧な英語でなくても、観光客に礼儀正しく、相手に対する関心を示しながら、ときには、ちょっと脱線した会話をはさみながら、直接会話を交わしている。この場面こそ、日本政府や企業があと3年で達成すると約束したシナリオである。
日本がこの目標を達成するには、翻訳ソフトやアプリの充実や改善ではなく、英語人材の育成が必須だ。そのためには、冒頭に指摘したような、「ただ単語を置き換えるだけ」の表面的な英語教育を根本から見直すことが必要である。もちろん、わずか3年でこれを成し遂げるのは無理だろう。が、今こそその先を見据えて、英語という言語とどのようにかかわるかを見直すべきなのである。
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