「最強の戦国武将」は結局、誰だったのか? 「武勇、知略、動員力…」総合力は、この武将だ
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
Q1.戦国時代、「最強の武将」は誰だったのですか?
非常に難しい質問です。一口に「最強」といっても、「強さ」をどのような尺度で捉えるかによって答えは変わるからです。
「単に戦闘力の強さ」もあれば「チーム力の強さ」もあります。また、戦術面など「頭脳的な強さ」も戦いには必要です。
まずは「戦闘能力に優れた武将」について見てみましょう。
「戦場で絶対に出会いたくない」武将たち
上杉謙信は、生涯で70回の合戦に臨み、そのうち敗れたのはたったの2回のみと言われています。その恐れを知らぬ勇猛さは、敵味方双方を驚嘆させます。
1559年、味方がこもる「唐沢山城」の危機が報じられ、謙信は救援に駆けつけます。しかし進軍が間に合わず、城は3万5000の敵兵に攻められ、すでに落城寸前でした。
ところが、彼はこれを見るや否や、わずか44騎の手勢を率い、いとも容易くこの包囲を突破。城内に入ると、城兵を鼓舞しそのまま敵を撃退してしまいました。
織田信長が生涯で戦った回数は、トータルで「155戦(113勝28敗14分)」にものぼります。
これは、15歳の初陣から計算すると、1年間に平均4.4回という驚くべきペースです。敵とみれば容赦はせず、残虐に敵を攻め滅ぼすこともしばしばでした。
ご存じのとおり、織田信長は天下統一を目前にして「本能寺の変」で暗殺されてしまいますが、もしこの事件がなければ、さらに記録は伸びていたでしょう。
出羽(山形県・秋田県)の最上(もがみ)氏の家臣である延沢満延(のべさわみつのぶ)は、その「怪力」で知られます。
彼が愛用した武器は、槍(やり)や刀ではなく、なんと長さ五尺一寸(約150センチメートル)の鉄棒でした。この鉄棒の一撃をくらった敵は、頭が胴体にめり込んだと言われています。
また彼に体をつかまれ、投げ飛ばされた者は、そのまま深田に頭から杭打ち状態で突き刺さったとも言われています。桜の木を根っこごと抜き倒したという逸話も伝えられています。
徳川家康の家臣、本多忠勝は、家康を打ち負かした武田信玄も認めた「名将」として知られています。生涯で57回の戦いに参加しながら、ついに1度もケガを負いませんでした。
そのため、彼が晩年に死を迎えた原因は、「つめを切り損ねて、指先をわずかに傷つけてしまった(はじめて血を流した)から」などといったうわさがささやかれるほどでした。
ちなみに、同じ家康の家臣である井伊直政は本多忠勝とは対照的に、それを目にした誰もが驚愕した傷だらけの体だったそうです。
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