「最強の戦国武将」は結局、誰だったのか? 「武勇、知略、動員力…」総合力は、この武将だ
Q2.勇猛さとは異なる「強さ」を誇った武将はいますか?
自らの能力や特性を駆使し、大きな脅威として敵から恐れられた武将もいました。腕力だけでなく「特技を生かした強さ」も、戦国の世を生き残る強力な武器と言えましょう。
続いて、独自の能力に優れた武将をあげてみます。
戦いは「腕力のみ」で勝つのではない
毛利元就(もとなり)は、それまで安芸(あき・広島県西部)の小領主にすぎなかった毛利家を、わずか1代で中国地方のほぼ全域を支配する大大名へと躍進させました。
彼の強さの秘密は、何といっても「周到な策略」にあります。
1555年の「厳島(いつくしま)の戦い」では、2万の大軍を率いる陶(すえ)氏に謀略を仕掛け、あらかじめ定めておいたせん滅地点(厳島)へ誘い込むと、わずか4000の兵で奇襲を行い大勝します。
彼に戦いを挑んだ敵はことごとくその術中にはまり、蹂躙(じゅうりん)されました。
戦国時代後半は、経済力を武器に大量動員で敵を圧倒する戦い方が増えてきます。
なかでも、織田信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、「九州平定」で約22万人、「小田原征伐」で約21万人、朝鮮半島に出兵した「文禄の役」で約16万人と、「動員力」では群を抜いています。
ちなみに、徳川家康が「大坂冬の陣」で率いたのは約20万人、あの天下分け目の戦いで知られる「関ヶ原の戦い」は東西両軍あわせても16万人程度です。
九鬼嘉隆(くき よしたか)は、全国でも珍しい水軍を率いた大名です。
特に、九鬼氏の船の建造技術は非常に高く、1578年に行われた信長の「石山本願寺攻め」には、信長からの依頼で6隻の「鉄甲船」を建造して参加。その船は全長約30メートル、船体を鋼板で覆い、大砲を多数搭載した大型船でした。
「石山本願寺攻め」では、この鉄甲船を中心にして大阪湾の海上封鎖を行い、本願寺の救援に駆けつけた村上水軍を、圧倒的な火力で撃退しました。
豊臣秀吉や徳川家康にも仕えた藤堂高虎(とうどう たかとら)は、武勇だけでなく「難攻不落の城造り」にも定評のある武将でした。
江戸城をはじめ、京都聚楽第、宇和島城、二条城、さらにはその堅牢な城郭構造に恐怖を抱いた幕府が天守の建造を許さなかったという丹波篠山城など、生涯に20以上に及ぶ城のデザインや改修に携わりました。
ちなみに、藤堂高虎は城以外にも日光東照宮、上野寛永寺、京都南禅寺三門等の建立にも深く関係しています。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら