言いかえれば、「道徳的善さ」には、外形的に法に反しないことのみならず、その人が真に知っていることに反しないという要素が含まれる(これを「真実性の原則」という)。「真実性の原則」とは、絶対的真理ではなく、さしあたりその人が知っている真実であって、それを自己や自己の関係者に不利になっても語るというところに道徳的善さの根本がある。
森友学園問題をめぐって「おもしろい」のは、新聞やテレビの解説委員はもちろんのこと、どんなに軽薄なテレビのコメンテーターも、誰ひとりとしてこうした問題に立ち入る者はいないということ、「真実より人権を優位に置く」という(フーコー的に言うと)近代のエピステーメを共有している、ということです。
森友問題で「哲学と世間」の不幸な関係が露呈した
ここで、本連載の趣旨を想い起してもらいたいのですが、「哲学と世間」との不幸な関係と言いましょうか、「哲学はどこまで世間に切り込めるか?」という切実な問いが、まさに森友学園問題において見事なほどあらわになっている。予算委員会で、必死に追及する野党議員だって、同じ「真実より人権を優先する」という原則のもとにいて、逆に自分が追及されたら同じことをするに違いない。
世間では、人々は一応哲学を重んじるふりをしますが、いざ生活の中に侵入して生活を攪乱し始めると、大慌てで追い出そうとする。とくに、官庁、企業、学校、病院などの組織は毛嫌いする。というのも、(真の)哲学は真実を第1に求めるからですが、官庁や企業をはじめとして、普通の人々の第1に目指すところは真実ではなくトク(すること)だからであり、耳あたりのいい言葉を使えば「幸福の追求」だからです。よって、世の中のあらゆる組織は、真実がトク(すること)を脅かすとき、文句なしに真実を圧し潰そうとするのも納得できるというものでしょう。
といっても、誤解してはなりませんが、ここで私は、現代日本において、支配者が異端尋問の末に都合の悪い宗派の者を火あぶりにしたり、共産主義者を拷問のすえ処刑したり、という野蛮なことを企てる、ということを指摘したいわけではない。考え方によっては、もっと野蛮なのですが、真実は「正義」「適法性」「法治国家」「基本的人権」「人間平等」という美名のもとに覆い隠されると言いたいのです。
犯罪被害者は人権という厚い壁によって加害者が保護されていることに絶望的思いを感じることでしょう。裁判で負けたほとんどすべての人は、もう自分の正当性を主張できるチャンスがないことを知って、いら立ちの叫び声をあげることでしょう。会社の横暴に怒り心頭に発しても、法律的には手落ちがないと知って、意気消沈することでしょう。
これまで何回も言いましたが、法律には人間の(あえてこの言葉を使いますが)「本性」に反する要素がゴマンとあり、法律が「悪者」に味方し「善人」に味方しない場合は数限りなくある。このことは「あたりまえ」であり、法律は第一に真実を目指しているのではなく、真実より重要だと思い込んでいること(法的安定性とか人権とか平等とか……)を目指しているからです。
こうして、「真実より人権を優先する」という「公理」が日本国中津々浦々まで、まかり通っているときに、私はあえてここに潜む問題を指摘したい。そして、哲学者の端くれであるからには、カントにならって、いかに人間の愚かさに基づいたこの公理が現実的には仕方ない方策であるとしても、やはり「真実性の原則」こそが道徳的善さの根本だと言いたい。
道徳的善さは、その実現可能性とはまったく別であって、(「永遠平和」のように)たとえ実現できないにしても、どんなに馬鹿げて見えようと、たとえ社会が大混乱しようと、人類が滅亡しようと、「真実性の原則」のうちにあるのです。哲学者がこうした理想的立場をとらないとしたら、いったい他の誰がとるというのでしょうか?
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