それ以来、人権を粉々にして真実を解明することより、人権を守るためには真実を犠牲にするのも仕方ないという優先関係が成立し、この大原則のもとに、政治家も、官僚も、弁護士も、私人も動いている。これは、いわば「法律の限界」ですが、この限界を問題視することなく、この限界内で真剣であることが大切なのです。
これまでも、この連載で「舛添問題」とか「豊洲移転問題」をちらっと取り上げましたが、そこには、鮮やかに「法律の限界」が示されていました。常識とはいかにかけ離れていても、合法的でさえあれば、すなわち不合法であることが積極的に論証されない限り、身は安泰なのだという舛添さんの信念と態度が見事にしっぺ返しを受けたことは、かなり稀な事例です。豊洲移転の責任者、地下空洞の決定者等々がいまだ判明しないことも、まさに想像を絶する非常識なことなのですが、この問題も、あくまでも合法的に(つまり「法律の限界」内で)処理しようとするからこそ、えんえんと時間がかかるのです。
じゃ、といきなり常識や直感をもち出して、法律を批判することがあってはならないとみな思っているので、すなわちそのときは恐ろしい社会が現出するだろうとみな漠然と考えているので、なかなかこの合法性の壁を突破することは難しい。
そんなときこそ、哲学者の出番なのです。カントは『永遠平和論』のはじめに「私はこれから永遠平和を論じたいが、哲学者とは、9本しかピンが立っていないボーリングで11本倒したと豪言する輩なのだから、これから大ボラを吹くことも許してほしい」というようなことを書いている。まさに哲学者の鏡とも言える優れた発言だと思います。
哲学者の役割は、誰も批判しないことを語ること
真実が人権の影に隠れている現状に対して直感的にヘンだなあと思いながらも、誰もあえて批判しない現代日本の状況において、あえてヘンだと語ることこそ、哲学者に要求されていることではないでしょうか。なお、ソクラテスは伝来の神を敬わなかったことと青年を誘惑したという2つの罪によって死刑判決を受けたのですが、これを言いかえるとポリスの存続や繁栄より真実を優位に置いたということでしょう。そして、このソクラテスの処刑こそ(西洋)哲学の幕開けだということは、とても意味深く思われます。
ここで、あらためて確認してみますと、証拠が挙がらない限り、あるいは法に基づいて有罪と証明できない限り、(1)その人Xに責任が問えなくなるばかりではなく、(2)Xが「正しい」ことになってしまう。
いいでしょうか。本来、Xの言動に対して法的責任を問えないということは、単に愚かな人類史を背景にした制度上の「方策」にすぎないのに、それが直ちに「正しい」ことになり、さらにXを訴追していた人が反射的に「正しくない」人になってしまう、こうして(1)がやすやすと(2)に滑って行ってしまう。これを自覚することが最重要問題なのです。
カントは、このすべてに反対している。前にも述べましたが(「ヨーロッパの道徳は『容赦ない社会』が生んだ」参照)、カントは法的正しさを「適法性」と呼び、道徳的善さを「道徳性」と呼ぶ。前者は外形的なよさ、すなわちネガティヴに法に触れていない言動であり、後者はそれ以上に内面性を含み、すなわち自分が真に知っていることに反しない言動、ということ。そして、カントの最も根本的な主張は「適法性は道徳性ではない」ということなのです。
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