真田を伝説にした、兄・信之の「合理的な選択」 幸村ひとりではなしえなかった「ブランド化」

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「信之は非常に優秀な人物で、徳川家康からも相当に目をかけられていたようです。そうであったからこそ、助命嘆願も押し通せると思ったのでしょうね」と、本郷氏は分析する。家康が信之を買っていたことは、自身のいちばんの忠臣である本多忠勝の娘と結婚させたことからも明らかだ。なぜなら、信之はすでに上州・沼田城を守る「一国一城のあるじ」であり、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた真田昌幸の後継者の地位にいた。家康が信之をわが子同然にして、真田家を取り込もうとしたのは必然であったといえる。

「関ヶ原の戦い」より前、幸村(信繁)は上杉や豊臣の人質に過ぎず、まだ世に知られていなかった。一方の信幸(信之)は北条氏などとの度重なる合戦で、いくつも手柄を立て、1585年の「第一次上田合戦」でも父を補佐し、徳川の大軍から上田城を守り抜いた。その実力は証明済みであったし、すでに周りからも一目置かれる存在だったのである。

そうして迎えた「関ヶ原」で、西軍についた父・昌幸と幸村は敗軍の将となった。彼らは信之の助命嘆願によって命を助けられ、紀州へ配流された。嘆願が聞き入れられたのは、舅の本多忠勝の取り成しがあったからなのは間違いない。その流れの中で、「信幸」も「信之」へと改名している。すんなり「幸」の字を捨てるアピールもまた、家康の心を大いに動かしたはずだ。

その証拠に、信之は自分の土地・沼田3万石だけでなく、父の旧領・上田をそっくり引き継ぎ、合計9万5,000石の大名へと出世したのだ。「関ヶ原」後の信濃には、各地に徳川譜代の大名が派遣され、旧領主がすべて移封・改易の憂き目を見たなか、真田家の信之だけが所領安堵を勝ち取ったのだ。

戦わずして利を得る、まさに「名よりも実を取る」戦略だ。信之は人間心理を利用した方法でブランドを継続させた。そして最終的には真田家というブランド、その従業員たる家臣団を守り切った。「信之」という名には、彼のそういった武将としての強さ、不退転の決意が秘められているのだ。信之は真田家の新当主としての役割を、十分すぎるほどに果たしたといえる。

真田家から学ぶ後継者問題解決法

そうした信之の英断だが、彼ひとりのものというより、もともと真田家で引き継がれてきた「DNA」によるところもあったかもしれない。

そもそも真田家が、徳川からも豊臣からも重んじられた理由は、信之以前の時代から、まぎれもない実績があったおかげだ。それは信之の祖父・幸隆の活躍に始まる。

『高白斎記』によれば、幸隆は武田信玄に仕えたばかりのころ、信玄が苦杯を舐めた戸石城を調略によって1日で落城に追い込んだという。それ以来、幸隆は信玄に重用され、真田家の地位を向上させていった。そして、後世にいう「武田二十四将」には、幸隆自身はもちろん、彼の3人の息子も含まれている。二十四将に4人も選ばれたのは真田家のみ。それだけで、この一族がどれほど粒揃いであったかがわかるはずだ。

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