だが、高校3年春に高松西高校と行った練習試合が分岐点となる。相手は小柄な投手で、特筆すべきスピードボールを投げていたわけではないが、サイドスローからのシンカーで内野ゴロの山を築いた。その姿を見た監督が、「お前も同じようなタイプだから、シンカーを投げろ」と潮崎に命じた。それから1、2カ月後、すぐに“魔球”を習得できたという。
「魔球と言うと、『開発に何年もかかって、ようやく試合に使えるようになった』という話をよく聞きますよね。僕にはそんな開発秘話はありません(笑)。コントロールも右バッターの膝元ばかりにいくような感じで。それまでは2番手投手だったのが、急に打たれなくなりました」
高校卒業後に松下電器へ進むと、ストレートの球速が10〜15km速くなった。150km近くのストレートとシンカーのコンビネーションで頭角を現し、19歳で出場した1988年のソウル五輪では銀メダル獲得に貢献する。89年ドラフト1位で西武に入団すると、抜群の勝負度胸でチームを何度も勝利に導いた。入団1年目の日本シリーズでは巨人と対戦し、3勝0敗で迎えた第4戦では7回から登板。最終回、駒田徳広をシンカーでピッチャーゴロに打ち取り、胴上げ投手になった。
考え方ひとつで、どうにもなる
宝刀のシンカーで打者をきりきり舞いさせる潮崎を見て、投げ方を教わりにきた投手は少なくなかったという。惜しまずにボールの握り方を教えたが、彼のようなシンカーを投げる者は現れなかった。潮崎のように薬指の柔らかさを持つ投手はおらず、ボールをリリースする際にうまく抜くことができないため、回転力を止めてしまうことが理由だった。
しかし、潮崎は「僕のシンカーを投げられなくてもいい」と言う。
2005年、中日から正津英志というサイドスローのピッチャーが西武に移籍してきた。07年から西武の指導者になった潮崎に、正津は「いろいろとマネしてみましたが、潮崎さんのシンカーを投げられませんでした」と言った。正津のシンカーを見ると、潮崎と球の握り方こそ違えども、リリース時にボールを抜く感覚は同じだった。
「僕みたいに薬指で抜くのは難しい。でも小指をどかして抜けるなら、そうやって投げればいい。その感覚自体は同じ。考え方の違いであって、自分に合っている球を操れればいい。僕の握りじゃなかったら絶対にあかんということではなく、似たような球がほうれるなら、どんな握りでもいいと思う。考え方ひとつで、どうにでもなるんじゃないですか」
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