他にも違和感を覚えた文章があります。
「日本の未来を創るのは、他の誰でもない。私たち自身である。少子高齢化の克服をあきらめてしまったら、私たちの子や孫の世代に輝かしい日本を引き渡すことはできない。責任放棄である」
そもそも少子高齢化は克服しなければいけない問題なのかと。人口が減っていく状況を受け入れたうえで、じゃあどうするかという選択肢もあっていいはず。でも、その選択肢が最初から消されてしまって、結論ありきの前提が書かれてしまっている。
「ゆとり教育」がなぜつまずいたのかを考えよう
おおた:今後、少子高齢化によって労働力不足が予想されます。しかし、最近はAIがそれをカバーするとも言われていますよね。じゃあ、少子高齢化で何が困るのかというと、実は労働者が減ることではなくて消費者が減ることなんですよ。
常見:日本は低成長と言っても、1億2000万人の人口を抱える大国です。人口が維持できる限り、日本はまだまだトップレベルの市場でいられます。そのために消費者を減らしたくないという国の意図が、「一億総活躍プラン」からうかがえますよね。
おおた:人口やGDPの増加だけを成長の指標に置いてしまうから、「一億総活躍プラン」みたいなおかしな発想が生まれてしまうんです。個人的には、資本主義の先の新しい経済のあり方を考えるステージに入っていると思うんですが。
常見:いかにして「一生懸命働かない社会を作る」か、ですよね。一生ずっと年収500万円から600万円と横ばいで、でも子どもを2人大学に入れられるような社会が来たらいいなと思うんですよ。しかも、ちゃんと18時に退社できるという。
おおた:ええ。「一億総活躍プラン」のなかでも「『働き方改革』が最大のチャレンジである」と安倍首相は断言しています。
しかし、僕は「働き方改革」が「ゆとり教育」と同じ轍を踏むと感じたんですね。ゆとり教育は「量よりも質の教育を目指そう」という理念で実施されました。ところが、理念だけが先行してしまって、その時にどういう副作用があるのか、ちゃんと検証していなかった。
結果、当初は20年、30年後の日本が良くなるために発想力のある子供たちを作ろうとしたはずなのに、たった1~2年後のOECDの学力調査の結果によって「ゆとりはダメ」だと、噛み合わない議論の中で否定されてしまったという歴史があります。
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