エチオピアで生まれる「最高級バッグ」の情熱 日本人起業家が現地で目指していること

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鮫島のインスピレーションの元は、中学生の頃父親の仕事の関係で暮らしたイランで見たものと、シャネルの創業者でデザイナーのココ・シャネルである。

イランは当時、イラン・イラク戦争の最中で、貧富の差が激しかった。自分はプール付きの豪邸でお手伝いさんがいる生活をする一方で、家を出れば、手足が無い人、ぼろを着た子どもが金をせびる姿があった。けれどもその一方で、イランはとてつもなく美しかった。古くからある文明、モスク、カリグラフィーや詩。これほど魂をゆさぶられるようなものを日本では見たことがなかった。

シャネルはフランスの孤児院で育ち、コンプレックスを持ちながらもそれを原動力にし、女性をコルセットから解放してあげたいとの思いから、ドレスにジャージー素材を取り入れたり、パンツ・スタイルという画期的なスタイルを提案した革命的なフランスのファッション・デザイナーである。

デザイナーでアフリカの役に立ちたい

エチオピアに渡ったのは2002年。国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊としてエチオピアに2年間、ガーナに1年間派遣された。エチオピアに行く前は短大と美術専門学校を卒業し、化粧品会社に就職、化粧品のプランナー・デザイナーとして活躍していた。初めは自分がデザインしたものが商品になることが楽しかったが、新シーズンごとに大量生産しては古いものは破棄する、そのあり方に疑問を持つようになっていた。人の物欲を満たす仕事でなく、人のためになる仕事がしたいと強く思うようになっていた。そんな時、協力隊でデザイナーという職種があることを知り応募。デザイナーでアフリカの役に立ちたいと思った。

手作業で丁寧に革製品を作り上げていくエチオピア人の女性職人 ©Kiyori Ueno

派遣されたエチオピアでは、国営観光公社で外国人にも受け入れられるように工芸品に付加価値をつける仕事をするはずだった。しかし、公社は助成金を受け取るだけで満足し、スタッフは働く気が全くなく、自分の仕事もなかった。いわゆる“援助漬け”の現場だった。意を決して、職場には行かないことにし、自ら見つけた地元のデザイナーと組んで洋服、バッグ、靴のファッション・ショーをした。ショーは大成功。「大変で疲れたけど面白かった。ショーで見せたものは即売した。高価値のものも売れた。買う人もハッピーだった。この感覚を得た時、自分が今後やりたいことの『答えが出た』と直感した」と鮫島は振り返る。それまでに途上国での援助の限界を感じていた。

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