抱えてきた苦しみが大きいほど、そこにきれい事はない。
だからこそ支援者には専門性が必要なわけで、一方でその「かわいそうバイアス報道」が当事者を失望させるだけの安易なアマチュア支援者やにわか支援希望者を量産してきたとすれば、僕のこれまでの著作は「害毒」と言っても過言じゃないだろう。
随分、自虐的だとは思うが、この「ハンパにきれいに書くのも問題よ」という言葉は、思えばもう6年も前に、貧困者支援の最前線で戦う支援者から僕に投げかけられた言葉だ。
とはいえ「まずは可視化だ」ということで、かわいそう報道=苦しみの可視化報道を続けてきたが、その前に立ちはだかったのは、「想像力の壁」だった。一言で言ってしまえば、「人は自分が見たことのあるものにしかリアリティを感じられない」生き物だということ。それはこれまでの執筆活動の中で、読者の反応で痛いほどに味わってきたことだ。
読者の反応は3つに分かれる
コンテンツとしてブームになる前から子供や女性、若者の貧困をテーマに執筆を続けてきたが、その読者の反応は大きく3つに分かれた。
ひとつは実際にそうした困窮者の支援サイドにいる方々からの「私たちの見ている日常をよく描いてくれた」「よくぞ当事者の代弁をしてくれた」という反応。
もうひとつは「知らなかった! こんな人たちがいるなら私もなんとか力になりたい!」「知りたくなかったし、もう絶望。私はなんの力にもなれない」。
そして最後に、少なからずいるのが「こんな世界は見たことがない、これが本当に日本の光景なのか」「ファンタジーじゃないのか」と反応する読者だ。
描写にバイアスをかけているとしても、僕自身は取材対象者の物語を作るほどの才能はないし、その当事者の「 」(カギカッコ)内の言葉を絶対に改変したくないということで担当編集者たちと戦ってきた。だからそのリアルに自信はあるし、ファンタジーでこんな面倒くさい取材続けてられるか!とも思ったが、実は最も重く受け入れるべき読者の反応は、3番目なのだ。
その理由が、まさにその「想像力の壁」こそが、貧困問題の解決に大きな壁となって立ちはだかる現実だからである。
冒頭の取材対象者の言葉にいちいち驚いていたように、僕自身、その取材執筆活動はつねに自らの想像の向こうにあるリアルとの遭遇で、非常に体力を使う「解釈の経緯報告」だった。10年以上も似たような取材ばかりをやってきても、まだ目に落ちるウロコが残っているのは情けないが、それはそもそも僕が(一時的に貧困だったことはあったけど)スラム育ちでもなければ世代間を連鎖する貧困の当事者ではないからだ。
筆力がないのを読者のせいにしているようで気も引けるが、とにかく取材執筆活動の中で幾度も痛感させられたのは、人の想像力とはかくも限定的で、記者風情が筆致を尽くしたところで、読者が見てきた世界以外のリアルを想像してもらうことは困難極まりないということだった。
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