イラン暴動から見えた民主主義の弱さと強さ--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト

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イランの最高指導者、ハメネイ師が自国の“管理された民主主義”を抑圧する前から、イランの政治体制は特異だった。

イランの国民は大統領を選ぶ権利こそ持っていたが、その候補者は監督者評議会(メンバーの半分を最高指導者が選出)の審査を経た人間だけである。さらに候補者は、完全な宗教的信任を得ており、「聖職者が最重要な決定を行う体制」に忠誠を誓った男性でなければならない。実際、1981年に故ホメイニ師により選ばれ、首相となったムサビはそうした人物であった。

そのムサビ元首相は、今回の大統領選挙で、“改革派”として立候補した。彼は、報道の自由と女性の権利の拡大、国民生活にまつわる制限の緩和を唱え、対米交渉でも柔軟姿勢を取ると示唆していた。だが、ムサビは“強硬派”の現職大統領アフマディネジャドに敗れた。

ムサビの敗北はアメリカのネオコン(新保守主義者)に歓迎された。ネオコンの著名な評論家マックス・ブートは「選挙の結果に少しばかり満足している」と語った。なぜなら選挙の結果、オバマ大統領が、イスラエルによるイランの核施設攻撃を阻止するのが難しくなったからだ。ネオコンにとってイランは敵であり、イランの大統領は、改革を約束する理性的な人物よりも、狂った暴漢のように発言し行動する人物であるほうが、対処しやすいのである。

こうした態度は、過激なネオコンと共産主義の思想家の間にある本質的な近似性を思い起こさせる。西欧帝国主義とイスラエルへの敵意に取りつかれている過激なイスラム教徒左派は、ネオコンと同じように、ムサビの敗北を歓迎した。

歴史を振り返っても、共産主義者はリベラルな民主主義体制下の選挙における候補者間の違いを無視しがちだった。たとえば、共産主義者は、「穏健な左派は革命を遅らせるだけだ」という理由で、社会民主主義者を、強硬な保守主義者よりも危険視していた。こうした考え方が、1930年代のナチスによる民主主義の破壊を助けることになった。

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