「There was nothing but water.:見渡す限り水しかなかった→水だけが広がっていた→たくさんの水があった」というように使います。「なるほど『すごく理解がある』『とても理解がある』という意味で使っているんだな」「英語でも似た表現あるし」と思い直したのですが、それでもなお、「いやいや。ちょっと待ってくれ、そんなに簡単に『~しかない』と言い切っていいのか?」と、モヤモヤとした感情が残ったのです。
それ以降もちょくちょく「~しかない」という言い回しを、いろいろな場所で耳にしたり目にしたり。そのたびにざらりとした違和感を覚えていたのですが、ついにぼーっと眺めていたテレビ番組(パブリックなメディア)で、前述の「自信しかない」発言に遭遇したというわけなのです。
この違和感の正体はなんだろう? と、私はしばし呆然と考え込んでしまいました。
「婉曲表現」の雑さが波及?
私は何も「日本語の乱れはけしからん」だとか「これだから若者言葉は」などと眉をひそめたいわけではありません。それでもなにか見過ごせない、大きな流れのようなものを感じたのです。
ああでもない、こうでもないと頭を巡らせているうちに、私は、日本語に起きている別の変化のことを思い出しました。それは「婉曲表現」です。
婉曲表現とは文字通り、ものごとを曖昧にぼやかす言い回しのこと。「~的なもの」「~だったりするので」「~じゃないですけど、」「~みたいな?」「ま、テキトーに」……。
いつもつながっていられるSNSの流行や、衝突を避けて空気を読むことがもてはやされる潮流とともに、世の中の意思伝達はどんどん「ゆるく」「あいまいに」「ダラダラとしたもの」になっています。
「それはそれで仕方ないかなあ、実際問題、便利だしなあ」と思っていたところ、今度はいきなり、曖昧表現の真逆である、強調して断定するフレーズが幅をきかせ始めている。その時代に逆行した感覚・驚きこそが、違和感の正体だったのです。
繰り返しになりますが私は「言葉というモノは生き物であり常に変化し続けるもの。もちろん一抹の寂しさはあるけれど、基本的には受け入れよう」という立場です。
それでも「~しかない」に感じるのは、いわば「雑さ」「手抜き」です。
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