「安全保障に原発必要」は本当?被爆科学者の答え 原爆投下76年、あらためて考える「戦争」と「核」

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核兵器使用の悲惨さを今に伝える広島市の原爆ドーム(写真:撮るねっと/PIXTA)

日本の8月は「戦争」と「原爆」を考えさせる月でもある。今年は、核兵器禁止条約が発効してから初めての8月だった。私は、東京電力福島第一原子力発電所の事故後、現地や避難者の取材を続けているが、脱原発を考えるうえでは「核による抑止力」の問題も避けて通れない。

日本が原発を放棄しないのは、プルトニウムや再処理技術を持つことが核兵器の潜在的な開発能力を意識させ、抑止力になるという考えもあるからだ。まずは原子爆弾の被害者となった科学者たちに、考えを聞いてみた。

東京都立大学の元総長、佐野博敏(さの・ひろとし)さん(93)は東京都三鷹市に住んでいる。70歳を過ぎてから被爆者として講演するようになった。2015年には、三鷹市主催の講座で広島の被爆体験を話し、「政治家は(国民が)望みもしないのに国民を(戦争に)引っ張っていった。ものを言わなかった国民全体にも責任がある」と訴えたのを聞き、あらためてゆっくり取材したいと思っていた。

会社の寮の玄関を出ようとしたときに被爆

取材の日、自宅の呼び鈴を鳴らすと、マスク姿の佐野さんが現れた。客間では互いに距離を取り、斜めに相対。年齢を感じさせない、滑舌のよい語り口だった。

ほかの大勢の被爆者と同様、佐野さんの体験も壮絶だ。広島工業専門学校(旧制)の生徒で17歳だった佐野さんは当時、広島県大竹町(現・大竹市)の三菱化成工業(現・三菱ケミカル)大竹工場に勤労動員され、その寮で暮らしていた。

1945年8月6日は朝8時すぎに寮の玄関を出ようとしたときに、被爆した。爆心地からは約30キロ。辺りがピカッと強く光った後、青く晴れた広島市の上空に黒い雲が上がり、キノコ雲になっていく。夕方、その広島市の空が真っ赤に燃えているのが見え、大騒ぎになった。

広島市には母がいる。自宅は爆心地から1キロ足らず。翌日、自宅に急ぐと、川は死体で溢れていた。手の先から皮が剥けた人たち、焼かれた人たち、うずくまっている人たち、動かず倒れている人たち。母を捜して市内じゅうを歩き回った。顔の識別が難しいほどやけどを負っている人も多い。負傷者に「お母さん」と呼びかけ反応を見る。死体を焼くところ、首が焼け落ちた死体が火の中に入れられる様子も目撃し続けた。

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