復興五輪なんて嘘「今も苦しむ被災者」悲痛な本音 五輪期間中に帰還困難区域で見た厳しい現実
賛否両論の渦巻く中、東京オリンピックが終わり、各国の選手団も帰途についた。しかし、この五輪が「復興五輪」を掲げていたことを知っている選手たちは、どれほどいただろうか。日本選手の活躍が続く中、多くの日本国民もそれを忘れていたかもしれない。それでも、忘れるわけにはいかない。大会期間中の盛夏、私は福島に向かった。
7月25日、私は柴田明範さん(55)と一緒に車で福島県浪江町に向かっていた。国道114号から津島地区の集落に入る道路は、「内閣府」と書かれた銀色のバリケードでさえぎられている。柴田さんの自宅はこの向こうにある。
警備員に許可証を見せ、ゲートを越えた途端、柴田さんの線量計からピーピーというアラーム音が出た。数値は0.7~0.8マイクロシーベルト/時。時間の経過とともに減ってきたとはいえ、まだ事故前の10~20倍もある。
東京電力福島第一原発の事故後、政府は除染を進め、少しずつ「避難指示」を解除してきた。しかし、原発から北西に延びる放射線量が高い地域、7市町村にわたって今も帰還困難区域がある。そのエリアの除染対象はわずか8%だ。そのほかは除染するのかどうかも決まっていない。柴田さんの自宅は、この見通しが立っていないエリアにある。
住宅や商店は荒廃、田畑は“森”になった
ゲートの向こうには、適切な言葉も見つからないほどの荒廃があった。草木で壁も見えなくなった住宅、軒先の赤いフードが垂れ下がって落ちた商店、窓ガラスがいくつも割れている店舗兼住居……。「ここは長男がよくパンを買った店です」。
坂道を上っていくと、両側には高さ5~6メートルの草木が生い茂っていた。「どう見ても森にしか見えないでしょう」。かつては田畑が広がっていたという。言われてみると、“森”の間にビニールハウスの骨組みが見える。放射線量は1.3マイクロまで上昇していた。やぶに囲まれた細い道に入る。柴田さんは農家の3代目。父母と妻、子供5人の計9人で暮らしていた。ここを切り開き、畑をつくったのは祖父母だ。
「ここは私道で、両側にはうちの畑が広がっていました。ブルーベリーや白や紫、ピンクのリンドウを育てて、いつか奥さんとブルーベリーの観光農園をやろうと思っていてね。山菜を採って、肉を買ってきて、育てた野菜と一緒にバーベキューをして……。連休やお盆には親戚も集まって20人ぐらいでわいわいやるのが恒例で。楽しかったですよ」
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