「安全保障に原発必要」は本当?被爆科学者の答え 原爆投下76年、あらためて考える「戦争」と「核」
そんなことを繰り返し、母の死を覚悟した矢先、原爆投下から6日目ごろ。ようやく母と再会できた。国民学校の講堂。息も絶え絶えの負傷者に交じって、横たわっている。全身にガラスが刺さり、出血も凄まじい。髪の毛は抜け、頭は薄くなっていた。正常値で3000~8000/マイクロリットル程度の白血球は当初、2000を下回っていたという。
数カ月後、周囲では無傷の人に紫斑(しはん)が出て、死亡する事例が立て続けに起きた。母が通った医師にも紫斑が出て、白血病で亡くなった。その後、母は回復し、80歳すぎまで生きた。佐野さん自身は2度大腸がんを患ったが、原爆との因果関係はわからないという。
東京大学に入学して放射能研究の道へ
戦後の混乱を生き抜いた佐野さんは東京大学理学部に入学。放射能の研究で名高い木村健二郎(きむら・けんじろう)教授の講座に入り、大学院に進んだ。
佐野さんが大学院生のとき、第五福竜丸事件が起きた。木村教授は同船の乗組員が浴びた放射性降下物、いわゆる「死の灰」や、半年後に亡くなった船員の久保山愛吉さんの臓器、船員の所持品や衣類などの分析を依頼された。
木村教授には第2次世界大戦中に旧陸軍の要請で原爆を研究した経験もある。木村教授が「死の灰」を解析した結果、そこからウラン237を検出。それに基づき、アメリカ軍が製造した水爆の構造を突き止めた。
2007年8月23日の読売新聞に掲載された第1回国連原子力平和利用国際会議の事務局員・原礼之助氏の言によると、「第五福竜丸の灰に含まれる特殊なウランを手がかりに、軍事機密の水爆の構造を暴き、破壊力が限りなく大きくなることを示した(この)研究は、その後の核軍縮の流れを作った」とされる。
佐野さんは、手伝いとはいえ、この木村教授の下で放射能の研究に携わるようになった。ソ連も核実験を行い放射能雨が頻繁に降るようになり、東京都文京区の東大本郷キャンパスの校舎の屋上で雨を集めて、研究に利用した。母には「そんな危ないもの、やめとけ」と言われたが、被爆者たちを苦しめる放射能の正体を知りたいと考え、大学院修了後は木村研究室の助手になる。基礎研究であるメスバウアー分光学をアメリカ留学などで学ぶ。
30代で留学から戻ると、国内で第一人者になった。1983年の著書『放射化学概論』(東京大学出版会)は、放射線を学ぶ学生に今も読まれるロングセラーとなっている。
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