「安全保障に原発必要」は本当?被爆科学者の答え 原爆投下76年、あらためて考える「戦争」と「核」
低線量被曝のリスクについては、科学者としてどう考えるのだろうか。それを尋ねると、「どこまでなら被曝しても安全という値はない。浴びなければ浴びないほどいい」との回答だった。
各国の放射線防護対策は、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告にならっている。ICRPは、広島・長崎の原爆被爆者の追跡調査などを基に全身への被曝が100ミリシーベルトになると、がんの死亡リスクが約0.5%増えるとみている。100ミリシーベルトより低い線量の影響については、「線量の増加に正比例して発がんや遺伝性の影響が起きる確率が増える」との考え方を採用している。「どこまでなら安全」という値は示されていない。
では、核抑止力について、佐野さんはどう考えているのだろうか。日本が原発を放棄しないのは、核兵器への転用という政策の選択肢を捨てていないからだともいわれる。「北朝鮮が日本を攻めようと思えば、原発のどれかにミサイルを打ち込めば済む。あれだけ多くの原発が日本海側に並んでいる。日本は国防上、日本海に弱点をさらけ出している。国防を思うのなら、原発をやめるべきだ」
原爆で母を失った理論物理学者
素粒子を専門とする理論物理学者の沢田昭二・名古屋大学名誉教授(89)は、13歳のときに広島の自宅で被爆した。自宅は呉服店で、周囲には商店が密集。爆心地からは1400メートルほど離れていたが、原爆の投下後は建物がすべて吹き飛ばされ、何も遮るものがない風景が広がっていたという。
36歳だった母は家の下敷きになり、身動きできなくなっていた。沢田さんが引っ張り出そうとしても、崩れた柱や梁はまったく動かない。父は出張で不在。弟も国民学校に行き、不在。通りかかる大人に助けを求めても、大人たちもまた負傷していた。
炎が迫る中、身動きない母は沢田さんに「生き残って勉強して社会に役立つ人間になりなさい。早く逃げなさい」と促す。沢田さんは「お母さん、ごめんなさい」と泣きながらその場を離れ、がれきの上をひたすら走った。
「母は焼き殺されてしまいました。生きていたら、いろんなことをやったと思う。大正の女性としては珍しく、高等女学校を出て、東京の専門学校に進みました。町内会の副会長や婦人会の会長も務めました。すばらしいことができる人だった」
沢田さんは戦後、広島大学理学部に進み、物理学を専攻した。そのさなかの1954年、アメリカはビキニ環礁で水爆実験を行った。第五福竜丸が被曝した実験である。
実験後、核兵器の威力と影響力を知った物理学者アルベルト・アインシュタインと哲学者バートランド・ラッセルら11人の学者が「核兵器が人類の存続を脅かしている」として、ラッセル=アインシュタイン宣言を発表した。この宣言に賛同した世界中の科学者らは1957年、カナダのパグウォッシュ村に集まり、会議を開く。日本初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士も参加した。世界の科学者が核廃絶を議論するパグウォッシュ会議の始まりである。
ビキニ環礁で使用された水爆の爆発力は、広島原爆の1000倍もあった。沢田さんはその事実に驚愕。「自分の専門にしようとする物理学が人類を滅亡させることになるかもしれない」と考え、やがてパグウォッシュ会議・日本グループの事務局で活動するようになった。
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