中村不折は洋画家としてキャリアをスタートした人物だ。明治28年に子規とともに、日清戦争の従軍記者として中国に行き、現地の書に触れたことで書道の研究に没頭するようになった。
司馬遼太郎が『坂の上の雲』のなかで、子規の住まいの様子を、次のように書いている。
〈間かずは五つで、玄関は二畳、その右が三畳の茶ノ間になって、ここに母のお八重がいる。妹のお律はその左の四畳半にいた。玄関の奥が八畳で、これが客間というべきものであろう。客間の左が六畳の部屋で、ここを子規は居間兼書斎にした。この書斎は南に向いている〉
現在の子規庵の間取り
現在の子規庵の間取りもこの通りだ。子規の寝起きした南向きの窓からは日中、日が差し込む。
子規庵、保存会ボランティアさんの説明。
「この地は、加賀藩の前田家の下屋敷があった場所で、子規庵はそのなかにある二軒長屋の一軒でした。江戸・明治の時代、根岸は文人や墨客が別荘や庵を構える土地でした。子規の家には、夏目漱石や高浜虚子などの文人が足繁く訪ねてきました。残念ながら、子規の住んだ家は昭和20年の空襲で焼かれてしまいます。その後、門弟たちの努力で、焼失から5年、ほぼ元通りに再建され、今に至っています」
晩年の子規は持病の結核性脊椎カリエスの悪化で、部屋から出ることもままならなかった。それでも俳句の研究・創作には意欲的で、多くの作品を残した。


















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