建設部住宅課主幹兼課長補佐の竹内健一さんは、計画地域についてこう語る。
「今井ニュータウンの住所は『今井原』という地区の名前がついています。この一帯は古くから農地が広がっていた場所です。ニュータウンがそのまま今井原区となり、その後の開発などにより周辺に住宅が増えました」(竹内さん)
92年に長野市単独でニュータウン開発を施行することが決定。選手村の建設が地域の開発を導く形となり、両者をバランスよく実現するために行政の手腕が求められた。
後利用の住宅においては、バブル崩壊後の状況から、一般への分譲を目的とした住宅より、県や国の公的機関や地元企業の職員用住宅として供給することが検討された。
エンドユーザーは、県や県教育委員会、地元民間企業、大蔵省・建設省・郵政省など9つにわたり、複雑な事業だったことがうかがえる。
93年末、「今井ニュータウン基本計画検討委員会」が組織され、いよいよ具体的に動き出す。オリンピック開催まであと4年に迫っていた。
設計者はなんと28名「異例の体制」
委員長は、工学院大学工学部教授の渡辺定夫さん(東京大学名誉教授・都市計画家)が就任し、早速マスタープランの検討が始まった。
『今井ニュータウン建設記録』を見ると、以降、怒涛の動きが見てとれる。
マスタープランやガイドラインが議論され、94年3月に「長野市今井ニュータウン基本計画」が策定。4月に長野市建設部に「オリンピック村建設事務局」が設置され、6月には住宅購入者や購入戸数の最終調整が実施された。
そして7月、設計者選定委員会が発足し、住棟の設計者が選ばれる。
10月に渡辺さんが「デザインコミッショナー(総合監修者)」に任命され、コミッショナー体制がつくられた。



















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