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大学四年のころ、絢香は目黒のラーメン店“麺処石井”でアルバイトをしていた。界隈でも有名な人気店で、夕食時は行列が途絶えることはない。
店主でもある石井さんは六十歳前後で、白髭を蓄えた、いかにも頑固そうな親父さんだった。実際に頑固なんだと、絢香は思う。ときどき利益を度外視したラーメンを作っては、マネージャーの奥さんに愚痴をもらされていた。
修業生だった夫との出会い
その石井の親父さんによく叱られている、村上さんという従業員がいた。いわゆる修業生で、独立を目指しているゆえに親父さんの当たりも厳しい。
修業生といっても、若者ではない。髭面のずんぐりむっくりした、おそらくは三十代の男性だった。休憩中に聞いたが、実際、今年で三十四歳になるという。
「サラリーマンで十年勤めたけど、ラーメン屋が諦められなくてさ。石井の親父さんの鶏ラーメン、旨いだろ。ガサツな性格なのに、ラーメンは繊細なのズルいよな。俺も親父さんみたいな鶏ラーメンで、行列のできる店を作ることが夢でさ。脱サラして修業しながら、開業資金を貯めてるってわけさ」
前職は居酒屋チェーン店のキッチン担当だったという。調理師免許を持っていて、料理の基本は分かっている。
でも居酒屋とラーメン屋では勝手が違う。村上さんは、ときに親父さんに怒鳴られ、ときに頭を叩かれていた。それでも村上さんはふてくされることなく、いつもひたむきに寸胴に向き合っていた。
絢香は彼のように、夢を持ったことも、何かにひたむきに取り組んだこともなかった。平均的な高校に進学し、平均的な大学に進学し、春からはやはり平均的な、そして別にそこまで興味がない菓子メーカーに就職する。だから絢香は密かに、彼がいつか叶えるだろう夢を応援していた。
その年の終わりのことだった。
絢香は休憩室の丸椅子に座って、賄(まかな)いの豚丼ができあがるのを待っていた。
村上さんは小休憩中で、絢香の向かいでペットボトルの水をちびちび飲んでいる。



















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