家慶はこれらの一掃を父の死後100日も経たないうちに実行している。「そうせい様」と見くびられた、かつての家慶の姿はそこになかった。
抜擢した水野忠邦が「天保の改革」を断行
幕府の財政が待ったなしの状況下で、家慶が老中首座へと抜擢したのが、水野忠邦である。
忠邦は、綱紀粛正と奢侈禁止を打ち出して、料理も菓子も贅沢品は禁止。雛人形や能装束などに金銀を使用することや、絹物や豪華な装飾品も禁じた。
さらに、歌舞伎や寄席などの娯楽も統制したほか、出版も規制して、人情本作家の為永春水(ためなが しゅんすい)らなど処罰されるものまで現れたという。
それに加えて、株仲間の解散や藩専売制の禁止、物価統制令など、物価引き下げの政策など、忠邦は次々と財政改革を行っている。
忠邦にこれだけの改革を任せた家慶からすれば「父が引き起こした財政難から、なんとか脱却しなければならない」という思いがあったに違いない。水野は、そんな将軍からの期待に十分に応えることとなった。
こうして江戸の三大改革の一つ「天保の改革」が断行されるが、庶民はもちろん大きく反発した。それも無理はない。あまりに厳格な方針に、将軍の家慶すらも段々とうんざりし始めたという。
大奥からも反発の声が上がるなか、忠邦は上知令を断行しようとして失敗。これが忠邦にとっては致命傷となった。
上知令とは、江戸や大坂の近隣にある大名や旗本の領地を返上させて幕領に編入し、代地を与えるというもの。幕府の収入を増やしながら、江戸や大坂の防衛を強化しようというのが、その目的である。だが、収入が減る大名や旗本から猛反対の声が上がり、断念している。
上知令の失敗から、御三家や幕閣内部からの声も抑えきれなくなり、忠邦は失脚。忠邦の屋敷には人々が殺到し、石を投げて罵倒する者が後を絶たなかったという。



















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