「やっとこの時が来た!」
第12代将軍となった家慶は、大いに張り切ったことだろう。だが「まだやめへんで!」とばかりに、家斉は将軍の座を退いて西の丸に隠居してからも、大御所として政治力を持ち続けた。
そのため、家慶は世子としての期間が異様に長かったうえに、将軍になってからも、決定権は持てないまま。老中から何か相談されても、こう言うしかなかったようだ。
「そうせい」(そうしなさい)
ついたあだ名は「そうせい様」。そんな家慶について、福井藩藩主の松平春獄は『逸事史補』でこう嘆いている。
「慎徳公(家慶のこと)は、凡庸の君主で将軍の器量はなかった。老中水野越前守(忠邦)に愚弄された」
屈辱的だったに違いない。家慶は父と不仲だったというが、それも無理はないだろう。
父の死後にようやく改革を進めた家慶
それでも民衆に寄り添った善政が行われていたならば、まだ納得もできよう。しかし、家斉は肝心の政務は側近に任せて、ただ享楽にふけるのみ。側近は側近で権勢をほしいままにしており、幕政は腐敗化する一方だった。
この頃、腐敗した幕府に不信感を持った庶民によって、一揆や打ちこわしが多発している。フランスやオランダなどからの開国通商要求も重なり、まさに内憂外患のなか、家慶はひたすら、来るべき時を待つしかなかった。
そして、ついにその時は訪れる。天保12(1841)年閏1月、家斉は69歳で死去。家慶は50歳目前にしてようやく実権を握ることになった。
最初にやらなければならないことは、はっきりしていた。家慶は若年寄の林忠英や御側御用取次の水野忠篤など、父の大御所時代を支えた側近を次々に罷免している。
また、家斉が抱えた40人近い側室のなかでも、寵愛を受けていたお美代の方を、二の丸の専行院へと移動させた。大奥の維持費が大きな負担となっていたため、コスト削減を断行したのである。



















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