離婚率が令和の2倍!朝ドラ「ばけばけ」やたらと離婚&国際結婚が注目の明治結婚事情とは

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『明治の結婚 明治の離婚』(湯沢雍彦著、角川選書)では、作家の佐藤愛子が自分の両親の結婚について、どのように表現していたかが解説されている。男が望んだわけでも、女が望んだわけでもなければ、周囲の誰かが望んだわけでもなかった……として、佐藤は『花はくれない 小説佐藤紅緑』のなかで、こんな表現をした。

「年頃の男と女がいれば、結婚をさせるのがおとなというものの義務だと思っている連中がそれに賛成した。そうして二人は結婚した。特別な愛情も打算というほどのものもなかった。いわば慣習が二人を結婚させたのだ」

年頃になれば結婚するという慣習にしたがって結婚したにすぎなければ、離婚もまた特別なものではない。「結婚生活はよほどのことがない限り、続けていくもの」という意識もおのずと希薄になる。周囲の離婚の多さを思えば、小泉セツの離縁も特別視されることはなかっただろう。

新聞でももてはやされた国際結婚

あまりに離婚が多いために「結婚や離婚に規制をもうけるべきではないか」という声も多く挙がったようだ。新聞記事でもそんな記者の意見が打ち出されているが、実現することはなかった。

明治4(1871)年8月23日に「華族ヨリ平民二至ルマテ互ニ婚姻スルヲ許ス」という布告が出されたことで、身分を超えての結婚が許されて婚姻が拡大したことを思うと、時代に逆行する婚姻制限は現実的ではなかったのだろう。逆にさらなる婚姻拡大として、脚光を浴びたのが国際結婚である。

明治13(1880)年、明治政府から招聘されていたイタリアの彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザと、植木職人の娘・玉が結婚。玉はもともと日本画を学んでいたが、夫となったラグーザが帰国の際にともにイタリアへ。玉も西洋画を学び、油彩画家として活躍した。

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