「日本に、こんな美しい心あります。なぜ西洋の真似をしますか?」 朝ドラ「ばけばけ」日本の急速な欧化政策にハーンが嘆いた訳
愚痴をこぼすのも無理もない。文明開化に適応して、チョンマゲを斬り、洋装をまとい、そしてたとえ英語が堪能であったとしても、実際に異国の文化を持つ者と交流するとなれば、困難を伴う。
錦織は「出雲の三才人」の一人と称された教育者・西田千太郎をモデルとしているだけあって、登場から堂々した振る舞いを見せていた。英語も堪能がゆえに、異国人が来日するとなると、何かと頼られがちだったが、みなと同様に手探りだったことには変わりない。
実際においても、明治政府の官僚たちですら、文明開化にはさまざまな葛藤を抱えており、没落士族と同様に抵抗感があった。
神武天皇も洋服を着ていた?
明治維新後に「見た目」の改革が進められたのは、庶民に対してだけではない。いや、むしろ、明治政府の官僚たちにこそ急務であった。
なぜならば、明治政府には、裃姿の武士もいれば、衣冠や狩衣の公家もいる。公の場で、身分によって服装がバラバラというわけにはいかないだろう。明治4年8月の「散髪脱刀令」以後は、官員たちも散髪や脱刀が任意となり、同時に、机と椅子の使用や、靴を履いての出勤することが許されることになった。しかし、それだけでは不十分であった。
特に華族は洋装への抵抗感が強かったため、散髪脱刀令に続いて9月には、「服制変革内勅」が示された。
そこでは「今衣冠ノ制中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス」として、これまで天皇が着用してきた冠と束帯を否定。そして、筒袖・筒袴の洋服は、神武天皇の頃の服装に似ていることから、「神武天皇や神功皇后の頃のような服装に戻すべきだ」という論調で、服装の改革が唱えられている。
神武天皇に結び付けるのは、明らかに無理がある気がするが、なぜ、単純に「洋服とする」とせずに、このようなまどろっこしい論理を展開しているのか。それは、急速な服装の改革への反発を見越したものだった。日本史学者の刑部芳則氏は『洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新』で、次のように分析している。


















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