「論語」が教える、いつまでも成長できない【セミナー・ジプシー】に致命的に"欠けている感情"とは
【出典】第06「雍也(ようや)」篇・第20章句
【書き下し文】子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
【現代語訳】先生がいわれた、「知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない。」
「知る」よりも「好む」が大事。否、「好む」よりも「楽しむ」がもっと大事というメッセージだ。一見、「好きこそものの上手なれ」という格言と重ねられそうだが、注意深く味わってほしい。
「楽しむ」は「好き」の上位概念
孔子は、「好き」と「楽しい」を分けている。好きなことをやる。楽しいことをやる。現代的にはどちらも同じような意味で理解できてしまうが、2つの違いはなんなのか。
端的に言えば、「好き」は「快」だけ、「楽しむ」は「快」も「不快」も含むと解釈してみてほしい。
すなわち、「わかるまで、できるまでの苦労や悔しさ、停滞やストレスも厭わない=フラストレーションという不快=憤悱も含めて楽しめる」ということだ。
だからこそ、孔子は「好き」の上位概念として「楽しむ」を位置付けているのではないだろうか。
「好き」のみを重視した学び、不快を避け、快のみで満足する学びはどこまでも一時的で、その場しのぎ的な「盛り上がり」頼りになってしまう。
どうか「そんな熱はすぐに冷めてしまうのだ」という本質を自覚したうえで、昨今のエンタメ化された学びと適切に付き合っていってほしい。
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