「論語」が教える、いつまでも成長できない【セミナー・ジプシー】に致命的に"欠けている感情"とは

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当初「わかった」という感覚を得られたとしても、しばらく学び続けていると、当初の理解は、じつは非常に「浅いレベルの認識」だったと思い知らされる。

あるいは、何度か試してみて一通り「できる」ようになったことについても、何年か実践した後に振り返ってみると、当初の「できた」は非常にレベルの低い完成度に過ぎなかった……。

そんな自覚をした経験が、誰にでもあるのではないだろうか。

何より、こうした体験をするたびに、「なんて恥ずかしいんだ」「じつに情けない」「井の中の蛙だった」「不甲斐なくて悔しい」「もっと深く理解したい」「より高いレベルで実践したい」といった「憤」や「悱」がわいてきたはずだ。

大人になってからも、このような感情を抱く機会を、もてているだろうか。

こうした情緒がないまま学んでも、学びを心に響かせることはできない。首から上の頭のレベルで、情緒なき「情報を収集した」に過ぎないからだ。

さらに言えば、「情報を摂取、消費した」だけに過ぎない。「費やして消える」の文字通り、そんな学びはあっという間に記憶から抹消されてしまう。結果、「いい話を聞いた。ところで、具体的に何を聞いたんだっけ?」程度の感想しか残らなくても当然だ。

学びが「エンタメ化」された時代だからこそ

最後に、「大切なのは憤=モチベーション」というメッセージについて誤解をされたことがあるので、次の点についてもしっかり明記しておきたい。

孔子が言っている「学びの源泉」は「鬱憤」や「悱ち」であって、「快・不快」で言えば「不快=フラストレーション」の方も含んでいる。

学びは決して、受動的な娯楽=エンターテインメントだけで完結するものではない。「エンターテイン=楽しませてもらう」学習ばかりでは、一向に「鬱憤」が溜まってこないからだ。

それではすぐにエネルギーが枯渇してしまう。これは、学習における三日坊主の本質でもある。このことがわかると、孔子が「好む」と「楽しむ」を使い分けている次の章句についても、まとめて理解を深めることが可能だ。

次ページ子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。
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