「論語」が教える、いつまでも成長できない【セミナー・ジプシー】に致命的に"欠けている感情"とは

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一方、スキル系であれば、実際に何度か手足を動かして実践してみて、そのうえで、あらためて動画を見直すといったことが基本動作になるはずだ。

一発勝負で、1回動画を視聴しただけでは、一発逆転できるような人生レベルの学びを得ることなどできない。必要なのは、1回でも、一発でもなく、「一念発起=憤」の感情だ。

孔子自身が「憤」の体現者だった

じつは別の章句でも、孔子は「憤」の重要性を語っている。

【出典】 第07「述而(じゅつじ)」篇・第18章句

【書き下し文】葉公(しょうこう)、孔子を子路(しろ)に問う。子路対(こた)えず。子の曰く、女(なんじ)奚(な)んぞ曰わざる、其の人と為りや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみと。

【現代語訳】葉公が孔子のことを子路にたずねたが、子路は答えなかった。先生はいわれた、「お前はどうしていわなかったのだ。その人となりは、[学問に]発憤しては食事も忘れ、[道を]楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかずにいるというように。」

葉公(楚という国の葉(しょう)県地域の長官)が、孔子の弟子である子路に「孔子ってどんな人?」と聞いたが、子路は答えなかった。そのことについて、孔子自身が「次回からは、私はこういう人だったと答えてね」と伝えている場面だ。

孔子自身は、自分のことをどう言ってほしいと思っていたのか。

現代語訳にある通り、その答えは食事を忘れるほど発奮し、没頭する人。不安を抱くヒマもないくらい、時間が経つのも忘れるくらいの情熱で、モチベーショナルに学び続けていく人。

孔子自身が、まさに「発憤」の人だった。学びはスマートに、ドライに、機械的・効率的にやるものではない。もっと感情的な営みなのだ。

「憤」や「悱」をベースに学んでいると、いくらでも学びへの情熱=エネルギー=モチベーションを自家発電することができる。学べば学ぶほど、「わかる」にも「できる」にもキリがないということを自覚するからだ。

次ページ当初の理解は、じつは非常に「浅いレベルの認識」
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