「論語」が教える、いつまでも成長できない【セミナー・ジプシー】に致命的に"欠けている感情"とは
実際、社会人の学びの世界には「セミナー・ジプシー」「ノウハウ・コレクター」と呼ばれる人が一定数いる。
彼ら彼女らは「インプット」を楽しんでいるばかりで、「アウトプット」が圧倒的に足りない。結果、いつまで経っても成長も成功もできないまま、様々なセミナーを渡り歩くことに人生のリソースを費やしてしまっている。あなたの周りに、そんな学習者はいないだろうか。
「シン・自己啓発」の条件
彼ら彼女らと出会うたびに、「どうか学びの本質に気がついてほしい」と願い、祈るような気持ちで接している。成果がでない最大の原因、あるいは実りある学び・啓発の条件は明らかだ。
答えは、すでに2000年以上前にでている。「憤(ふん)」と「悱(ひ)」だ。
まずは「憤」。私は『論語』にある「不憤不啓(ふふんふけい)不悱不発(ふひふはつ)」の「憤」と「悱」を、それぞれ「わからない」という「鬱憤」と、そこから生まれる「発憤=発奮」と理解しているのだが、学びには「フラストレーション」や「モチベーション」が不可欠だ。
ただ口を開けて、「ためになる話」が供給されるのを待っている状態は、果たして「憤」と言えるだろうか。そこに「心からの動機」はあるだろうか。
ネット上に転がっている動画を興味本位で再生し、「何か有益な情報を言わないかな」「手っ取り早く答えをくれないかな」と受動的に学ぶのではなく、「こんちくしょう」「なにくそ」「負けてたまるか」「なんとかしてわかりたい」といった「憤」をベースに、能動的に学んでいく。
これが、「憤」のある学習であり、「能動的に」という言葉がピンとこなければ、もっと「エモーショナルに、モチベーショナルに、感情豊かに」学んでいく必要があるということだ。
あるいは「悱」。こちらにも「悱(いらだ)ち=イライラ=フラストレーション」の意味があることは、前述の通りだ。
加えて、私は「悱」をアウトプットと解釈しているので、フラストレーションの具体例として「お手本通り再現できそうで、できない」「うまく説明できそうで、できない」「もう少しでうまくいきそうなのだけれど、できない」といったイメージでとらえてみてほしい。
すると、現代的には、たとえばネット上の学習動画で何かしら勉強したら、あるいは本を読んだら、どのくらい理解できているかブログやSNSにアウトプットしてみればよいということになる。



















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