油業界を縛っていたルールを乗り越え、親会社から"海賊"と呼ばれた「出光」創業者の驚くべき豪胆

淡路島の資産家による開業資金の提供
独立への思いを胸に、しばらくは従業員わずか3人という零細企業の酒井商会で修業を続けるつもりだった出光佐三だが、独立の機会は予想外に早く訪れることになった。
酒井商会で働き始めて2年目の明治44年(1911)3月、出張のついでに福岡に帰省した佐三は、実家の藍玉問屋が廃業し、家族が赤間の家を引き払っていたことを知ったのである。
化学染料に押されて藍染は完全な衰退産業になっており、そこに親戚の借金の肩代わりまですることになって佐三の実家は立ち行かなくなっていたのだ。
数年前から佐三の学費捻出も厳しい状態だったのだが、この時には母・千代が自らの蓄えを切り崩して仕送りを続け、佐三に心配をかけまいとしていたのである。