油業界を縛っていたルールを乗り越え、親会社から"海賊"と呼ばれた「出光」創業者の驚くべき豪胆

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工場の見学を許された佐三は毎日のように現場に通い詰め、紡績機の前に陣取ってその動きを観察し続けた。使われている油を嗅いだり、時には舐めてみたりと研究する佐三の姿に、やがて機械の仕組みを教えてくれる技師も現れ始めた。

そして佐三は、紡績機の部品ごとに最適化させた潤滑油を調合し、現場に提案したのである。技師長はその熱意に感心し、この紡績工場は出光商会の初めての大口得意先となった。

消費者と生産者をつなぎ、相手の利益を考えモノを配給するべしという神戸高等商業学校時代の恩師・内池廉吉教授の教えが実践された瞬間でもあった。出光商会の事務所には、もう1人の恩師・水島校長の揮毫になる「士魂商才」の四文字が堂々と掲げられていた。

独立から3年目に、単身「軽油の売り込み」へ

当初、出光商会は、日本石油下関支店の機械油を扱う特約店として出発した。だが電気モーターへの切り替えの時代において、機械油の需要は減退。佐三は苦境を強いられた。廃業を覚悟するが、出資者であり、人生の恩人である日田重太郎の叱咤激励もあり、新たに覚悟を決めた。

改めて門司港を見回すと、湾内にぎっしりと漁船が浮かんでいた。それを見た出光佐三は、「これだ!」と心の中で叫んだ。目の前に潜在需要がひしめいていたことに気づいたのだ。

独立から3年目の大正2年(1913)、出光商会は漁船用燃料油の販売という新規事業に着手した。静岡水産試験場が日本で初めての発動機付き漁船での操業を成功させたのが明治38年(1905)。以来漁船は、小型のものも含めて帆船から動力船へという大転換の流れの中にあった。

佐三はこれに目をつけ、油事業の拡大を図ったのである。佐三が商談を持ちかけたのは、下関を拠点に沿海漁業を展開していた大手漁業会社の山神組だった。山神組は現在のニッスイの前身である。

佐三は山神組の船員たちが寝起きする宿舎に転がり込むと、居合わせた漁師たち相手に商品の売り込みを始めた。

「今、漁船の燃料に使われているのは灯油だが、それよりも軽油のほうが燃費がいい。おまけに安い。漁船の燃料に軽油を使ってみないか」

大多数の船員が突然の押しかけ商人を厄介者扱いする中で、佐三の話に興味を持つ者もいた。佐三の講釈を聞いた組員は、軽油を使えば燃費が半分になるため、コスト削減・利益増大につながると判断した。こうして佐三の売る軽油が「試しに」と使われることになった。

軽油は灯油に比べて臭いが強く、機関室の船員からクレームがつくなどいくつかの関門があったが、最大の問題は当時の油業界を縛っていたルールだった。

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