油業界を縛っていたルールを乗り越え、親会社から"海賊"と呼ばれた「出光」創業者の驚くべき豪胆
すぐにでも事業を興し家族を助けたいと思う佐三だったが、働きだして2年目の若者に独立資金があるはずもない。
周囲が心配するほどに思い悩む日々を送っていた佐三に、これもまた予想外の幸運が舞い込むことになる。淡路島の資産家・日田重太郎が開業資金の提供を申し出てくれたのだ。
苦労の連続だった「機械油(潤滑油)」の販売
日田は佐三より9歳年上で、明治44年(1911)頃は佐三が26歳、日田は35歳。淡路島の資産家の養子で、実家も同じく資産家。佐三は家庭教師として日田家に出入りするうちに日田と懇意になり、雑談中に出光の独立話に進んだ。
佐三の人間性に惚れ込んだ日田は「京都の別荘を売った6000円をもらってくれ」と申し出て「返済不要、利息もとらぬ」という破格の条件で資金提供した。6000円は現在の価値で8000万~9000万円にもなる大金で、剛毅な申し出に佐三も即答できず、友人を通じての2度目の申し出の際に受けた。
日田は出光の難局にたびたび援助を行い、佐三の終生の恩人となる。
のちの話になるが、昭和32年(1957)、製油所を建設した佐三は、その竣工式に恩人の日田を招待した。日田に、「すべてあなたの御恩のおかげです」と佐三はいった。日田は「あなたの努力と神様のご加護じゃよ」と手を差し出し固い握手を交わした。
その年の夏には軽井沢にある出光の別荘を日田に提供し、昭和37年(1962)に日田が亡くなると、郷里の淡路島での葬儀を、出光の社葬として行い、恩人に報いたのである。
出光商会を立ち上げ、青年実業家としての第一歩を踏みだした佐三は、学生時代からの石油への思いを実現すべく、機械油(潤滑油)の販売に着手した。
ただ機械油はそれほど実入りのいい仕事ではなく、どちらかといえば徐々に衰退する商売だと考えられていた。佐三と商談を進めていた日本石油の支店長は「難しい機械油で成功するなら何をやっても大丈夫だろう。試金石のつもりでやれ」とアドバイスを送っている。実際に事業を始めると、 支店長の言葉通り佐三は大変な苦労をすることになった。
主な商売相手である炭鉱の技師たちは大抵が現場の叩き上げで、佐三のインテリ風な背広姿を見るだけで反感を持った。 佐三も佐三で、袖の下を求めるような相手にはたとえ客であっても「馬鹿」と声を荒らげてしまう。やがて佐三が活路を見出したのは、炭鉱ではなく紡績工場だった。