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中国王朝「金」の皇帝・海陵王、その"異常すぎる"荒淫ぶり 妃だけで12人、母と娘や姉妹にも手を出し、妊娠中の侍女には…

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  • 加藤 徹 明治大学法学部教授
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・海陵王は、夫がいる宮女たちを交代で出勤させ、セックスした。彼女らの夫を出張させ、そのすきに彼女らを後宮の奥におしこめ、宿直の宮廷楽団に伴奏させながら猥褻な行為を楽しんだ。未婚の処女とセックスしようとして抵抗されると、元妃の大氏に命じて手で押さえつけさせ、事に及んだ。妃嬪(ひひん)をずらりと並ばせ、猥褻な行為を行い、それを周囲の者に見させて興奮することも好んだ。目をそらす者は殺された。

・辟懶(へきらん)という侍女がいた。海陵王は彼女の夫を県君に封じて出向させ、その留守にセックスしようとした。辟懶は妊娠中で、海陵王は胎児を邪魔に思った。辟懶はおなかの子の命乞いをしたが、海陵王は彼女に麝香水(じゃこうすい)を飲ませ、みずからその腹を揉んで堕胎させた。

・元妃の妹・浦速碗(ほそくわん)は既婚者で、姉に会うため宮中に行ったが、海陵王に性行為を迫られた。以後、彼女は二度と宮中に行かなかった。

・海陵王は、いとこの完顔烏禄(1123年〜1189年)の夫人・烏林荅(うりんと)氏に淫らな思いを抱き、召した。彼女は「私が行かねば、陛下は必ずあなたを殺すでしょう」と言って海陵王のもとに赴き、自殺した。

上記は『金史』が記す海陵王の淫虐行為の、ほんの一部である。

海陵王は在位12年目の1161年、60万の大軍を率いて、南宋を攻めた。33、34年前の靖康の変(1126年〜1127年)のときは、金軍は宋軍を打ち破り、あっというまに首都・開封を落としたが、今度はそうはいかなかった。

いとこが反対派として立ち上がり…

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「南船北馬」と言うとおり、華北平原では無敵の金の騎馬軍団も、川や湖が多い江南の地では機動力を発揮できず、南宋軍を相手に苦戦したのだ。海陵王が臨安を攻めあぐねているあいだに、金の本国では海陵王の反対派が立ち上がった。反対派は海陵王のいとこ、完顔烏禄を皇帝に立てた(世宗)。進退窮まった海陵王は、遠征先の揚州で部下の反逆により殺された。享年40。

海陵王は死後、帝位を剝奪され、海陵郡王に落とされた。その後、さらに降格して庶民とされ「廃帝海陵庶人」と呼ばれた。ただし、一般には「海陵王」と呼ばれる。

世宗は、自分のために命を犠牲にした夫人をしのび、在位28年のあいだ皇后を立てなかった。また後宮の規模と制度を簡素なものとした。

世宗とその党派勢力は、海陵王の悪逆非道ぶりについての証言を収集し、海陵王は廃されて当然の暴君だったと宣伝した。史書が伝える海陵王の乱行も、少し割り引くべきかもしれない。

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