「財政再建と減税の両立」に成功した「最強の宰相」松平定信 それでもなぜ、彼は江戸の庶民に嫌われたのか

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定信の「倹約令」は吉宗や田沼のそれと異なり、独自の意図を持って発令されている。

前回記事にも紹介した通り、それは「金と米を散らすため」、すなわち政治システムの合理化で浮いた資金を民間に放出することが目的であった。

もう一つは「倹約と不意の出費を分けられるのが本当の倹約である」というように、急な出費に備えて常に一定額を貯蓄できるよう、出費をコントロールすることに主眼があった。

これを個人レベルで行わせるということは、いわゆるマネーリテラシーを身につけさせるためであり、「宵越しの銭は持たぬ」式の消費文化を克服するためのものであった。

したがって定信は国民の平準的生活モデルを「常格」として定め、それに必要な所得を割り出し、所得上昇が達成されるまで財政出動し続ける一方、庶民にもみずからの生活設計と資産管理を求めたのが、「倹約令」なのである。

こうした「倹約」の考えは後に二宮尊徳(1787~1856年)の「報徳仕法」として農村の資産運用法に改良されたほか、明治になると安田善次郎(1838~1921年)の「勤倹分度」として派生し、貯蓄率が高く不景気に強い日本人の経済観念を育成した。

彼らはこれを松平定信や朱子(1130~1200年)から学んだと述べているが、定信の経済政策もまた、朱子の「朱子社倉法」や『大学章句』を独自に研究して応用したものであり、朱子学が現実に活用された結果だったのである。

庶民に寄り添う定信と反発する特権階級

このように、定信の経済政策は決して理念先行型で非現実的なものではなかったどころか、徹底して庶民に寄り添い、現代まで続く日本人の経済観念を形づくっている。

ただ、その政策によって一番被害を被ったのが、田沼時代に栄華を極めた大商人と、その恩恵を受けた芸能、メディア関係者であった。

このことが定信に対する激しい批判となり、また「倹約」の思想が浸透しきっていない都市民の反発を生むこととなったのである。

大場 一央 中国思想・日本思想研究者、早稲田大学非常勤講師

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おおば かずお / Kazuo Oba

1979年、札幌市生まれ。早稲田大学教育学部教育学科教育学専修卒業。早稲田大学大学院文学研究科東洋哲学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。現在、早稲田大学、明治大学、国士舘大学などで非常勤講師を務める。専門は王陽明研究を中心とする中国近世思想、水戸学研究を中心とする日本近世思想。著書に『心即理―王陽明前期思想の研究』(汲古書院)、『近代日本の学術と陽明学』(共著、長久出版社)などがある。

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